*クルセイダーキングス<十字軍の時代>
**1066年 欧州中東情勢
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***十字軍の発端 乱世のイスラム
アッバース朝の崩壊により戦国時代に突入していたイスラム世界で、トルコ人達の隆起によって建国されたセルジューク朝トルコは勢力を伸ばしていた。当時、アッバース朝はブワイフ朝に圧迫され、単なる宗教権威でしかなくなっていた。
そのため1055年にセルジューク・トルコがバグダットに入城を果たしブワイフ朝よりアッバース朝を解放すると、アッバース朝はセルジューク・トルコを解放軍として称えたのである。そしてアッバース朝のカリフは、スルタンの称号をセルジューク朝トルコの君主トゥグリル・ベクに贈り、各地の侵攻を「イスラム教布教のために行われる」ものとして大いに推奨した。セルジューク・トルコ帝国の始まりである。

イスラム世界の頂点へと上り詰めたセルジューク・トルコ。セルジューク朝・第2代スルタン:アルプ・アルスラーンは、アラーの教えを広めるべくビザンツ帝国(東ローマ帝国)に侵攻を開始。軍をアルメニアの地へと向けるのであった…
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-''カリフ'':イスラム教の宗教指導者。イスラム教の始祖・預言者マホメット(ムハンマド)の死後、宗教指導者は「カリフ(後継者/継承者という意味)」と言われイスラム教の頂点に立っていた。イスラム全体の合意の元選挙により選ばれた初代から四代目までを正統カリフをいう。後にスンニ派とシーア派に分裂し、統一した合意がなされぬままカリフが選出されることとなった。そのため五代目以降は「正統カリフ」ではなく、単に「カリフ」と呼ばれている。
--''スンニ派'':ウマイヤ家(マホメットの娘の夫ウスマーンの一族)を指導者とする一派。正統カリフを認めイスラム教典を元に行動するべきと考えている。イスラム教信者の九割がスンニ派といわれている。そのため通常イスラム教といえばスンニ派をさし、カリフといえばウマイヤ一族のカリフを指す。ウマイヤ家のウアーウィヤは、第五代カリフを称し、ウマイヤ朝を建国しイスラム世界を支配した。だが、アッバース朝に破れイベリア半島の一角へ退避。後ウマイヤ朝を立てていたが1066年には崩壊している。
--''シーア派'':マホメットの従兄弟で、マホメットの娘を妻にしていたアリーこそ、正統なマホメットの跡継ぎであり、その一族以外はイスラム教の指導者として認めないという一派。当然、アリー以外の正統カリフを認めてはいない。正統カリフのアリーを初代シーア派カリフ(イマーム)として四代目まで党派一致していた。だが、五代目以降はカリフ(イマーム)の就任をめぐり様々な派閥に分裂することになる。シーア派7代目カリフ(イマーム)を巡ってイスマイールを奉じるグループがイスマール派となり分裂し、後にファーティマ朝を建国することになる。
-''スルタン'':カリフにかわり世俗的な世界を取り仕切る政治指導者。オスマン・トルコ時代にはカリフとスルタンを同一人物が兼ねることもあった。
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-''セルジューク・トルコ''
十字軍発足の切欠となった。キリスト教最大の敵…なのだが、セルジューク朝では伝統的に王の死後、領土を一族や部下に分け与える習慣があったため王権は代を重ねるうちにどうしても弱くなり(元々トルコの遊牧民族の集まりであったため「皆で分け合おう」という考え方が根底にあった)その上、王族間の政争が激しく急激に体制は弱体化。第四代以降は単なる諸侯連合と化す。
-''後ウマイヤ朝''
スンニ派のカリフ、ウマイヤ一族が打ち立てた帝国。アッバース朝によりイベリア半島に追いやられる。欧州でもっとも身近なイスラム国家であったために、フランク王国など欧州各国から攻撃を受ける傍らで、留学生も頻繁にきていたらしい。内紛の末に1031年に実質的に滅亡している。1066年現在、イベリアはイスラム教の支配圏として残ってはいるが、頭を失い統制もできず分裂崩壊している状態である。
-''アッバース朝''
預言者マホメット(ムハンマド)の叔父アッバースの子孫がたてた王朝。ウマイヤ朝を追い出すとイスラム教のカリフを称す。広範囲の領土をもっていたが、次第に統制は失われ各地が分離独立する。1066年現在は、カリフとして名を残すのみである。
-''ファーティマ朝''
アッバース朝より分離独立したシーア派の国家。エジプトを中心に北アフリカを支配していたが、1066年現在ではエジプト近隣を支配するのみである。後に配下のサラディンが頭角をあらわし、急激に力を失っていったセルジューク・トルコに変わり、スルタンの称号を得てアイユーブ朝を打ち立てファーティマ朝は倒れることとなる。

***宗教対立
1066年現在、世界は大きく、キリスト教カトリック、キリスト教ギリシャ正教、そしてイスラム教(スンニ派/シーア派)の三つに分かれている。
現状では、カトリックとギリシャ正教はキリスト教の宗主の座を巡り争っているが、イスラムを敵視している姿勢に変わりはない。

後年、キリスト教の総本山(と一般的に言われる)カトリックのローマも、この時点ではまだ、ギリシャ正教と激しい主導権争いの渦中にあった。
こののち、一時はカトリックを凌ぐ勢いをみせていたギリシャ正教も、後ろ盾であった東ローマ帝国がイスラム諸勢力との戦いに敗れ滅亡したため、その権勢も大きく後退することになる。ローマ・カトリックは、第一次十字軍においてエルサレムを奪還し、存在感を大いに見せつけギリシャ正教を圧倒したが、度重なる十字軍出兵により欧州が疲弊したため、その権威は縮小することになる。
***宗教権威とカノッサの屈辱
1066年現在において、宗教の力は絶大であった。1077年におきた「カノッサの屈辱」はそれを最も端的に表している。
1077年、ドイツ国王(神聖ローマ帝国皇帝)ハインリヒ4世がローマ教皇に破門を解いてもらうべく、ローマ教皇グレゴリウス7世にのいたカノッサ城へ向かい、冬の最中に裸足で許しを乞うた事件である。
事の発端は、ローマ教皇グレゴリウス7世が司教の任命をローマ教皇が行うと神聖ローマ帝国に通達したことにある。これに対しローマ皇帝ハインリヒ4世は猛反発し「司教を任命するのは教皇ではなく皇帝である」と宣言し教皇の廃位を決定した。この宣言をカトリックに対する挑戦と受け止めたグレゴリウス7世は直ちに皇帝ハインリヒ4世を破門する。驚いたのは皇帝ハインリヒ4世よりも、その臣下達であった。ドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯は皇帝ハインリヒ4世の破門がとかれない場合は、廃位して新たな王を立てることを決定する。臣下達が総て敵に回り、皇帝は愕然とした。この時期、ハインリヒ4世に対する敵対勢力も少なくはなく、彼らが先導したのも確かだが、そもそも神聖ローマ帝国の始まりである東フランク、フランク王国(西ローマ帝国)はカトリックを後援すべく立てられた帝国である。神聖ローマ帝国の「神聖」とは「カトリック」「ローマ教皇」に対するものなのである。すなわちハンリヒ4世の宣言は神聖ローマ帝国の存在そのものを否定したといってよく、支持が得られないのも道理であった。そのため、ハインリヒ4世は教皇に破門を解いてもらうべくカノッサへと向かうことをよぎなくされた。
これを「カノッサへの道」(和訳「カノッサの屈辱」)と呼ばれた。
この事件の後「例え皇帝であろうとも教皇の許可なくば何もできない」という事実を世間に知らしめ、宗教権威の巨大さを改めて認識させることとなった。

破門を解かれたハンリヒ4世は、その後司教の叙任権をめぐって再び教皇グレゴリウス7世と対立する。この時は軍勢を率いてローマを囲み教皇グレゴリウス7世をローマより放逐した。

なお「司教就任の決定は、教皇と皇帝どちらにあるのか?」という問題は、
1122年、ウォルムスにおいて協定が結ばれ「教皇に就任権がある」ということで決着した。

**イベリア半島情勢 -西方の十字軍-
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***レコンキスタ<国土回復運動>
レコンキスタとは、異教徒によって占領された土地を奪還しよう!という動きのことである。
具体的には八世紀の初め、イスラムのウマイヤ朝によって支配されたイベリア半島の奪還を目的としていた。そのため、レコンキスタ<国土回復運動>は「西方の十字軍」とも言われている。

1066年現在、既に後ウマイヤ朝は政治的混乱の末崩壊しており、イベリアのイスラム諸侯は統制はとれなくなっていた。

その後、十字軍の活躍によって、イベリア半島のイスラム諸侯は弱体化を強いられ、キリスト教国に金を払って平和を買うようになる。困り果てたイスラム諸侯はモロッコのムラービト朝、次いでムワッヒド朝に助けを求めた。ムラービト朝やムワッヒド朝は一時的にレコンキスタを食い止めはしたものの、大きな流れを変えることはできなかった。1228年にムワッヒド朝が崩壊すると、アラゴン王国、カスチラ王国、ポルトガル王国の軍が南下を開始、イベリア半島の大半の征服に成功した。これによってカスチラ王国に臣従して命長らえたナスル朝グラナダ以外の全土がキリスト教徒の支配下に入った。ナスル朝は欧州にイベリア半島を奪還されまいと1492年まで抵抗を続けていたが、スペイン王国(アラゴン王国とカスチラ王国が王族の結婚によってスペイン王国として統一されていた)の攻撃を受けて降伏。イベリア半島のイスラム教は掃討された。

-''レオン王国''(アストゥリアス王国)
イスラム教徒によって滅ぼされた西ゴート王国の貴族ペラーヨが718年に、イベリア半島北部の山間部に逃れて建てた王国。初期はアストゥリアス王国と呼ばれたが、914年にレオンに首都を移し、以降はレオン王国と呼ばれた。1065年以降、もともと配下だったはずのカスチラ王国に覇権を奪われ、1230年には併合されてしまう。

-''スペイン辺境伯''
イベリア半島を征服した勢いを駆ってフランスに侵攻したウマイヤ朝を撃退したフランク王国が、半島の北東部を少しずつ奪い取って作り上げた辺境伯領。フランク王国が分裂すると混乱したが、バルセロナの伯爵が統一した。バルセロナ伯は1164年にアラゴン王国を併合し、スペイン東部のレコンキスタを担う勢力に成長する。

-''ナバラ王国''
ウマイヤ朝の公認のもとヒメネス家が作り上げた王国で、次第にウマイヤ朝から独立してレコンキスタを担うようになった。1004年にナバラ王になったサンチョ3世大王は、カスチラ伯から妻を迎え、レオン王国から次男の后を迎え、バルセロナ伯をも従えて、イベリア半島のキリスト教国を束ねた。1031年にウマイヤ朝が内紛で崩壊すると、これにつけ込んで南下に成功した。しかし1035年にサンチョ大王が死去すると、王国は四人の子供によって分割されてしまった。(以下の系図を参照。)
ナバラ王国はその後、百年戦争、カスチラの内乱と立て続けに負け側について領土を削られ、1512年に南側をスペインに、1572年に北側をフランスに併合され、消滅した。
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-''カスチラ王国''
もともとはレオン王国の一部で、イスラム教徒の攻撃に備えてたくさんの城(カスチリョ、キャッスルと同語源)があったことに由来する。もともとは伯爵領だったが、1029年に母方の叔父からカスチラ伯位を継承していたフェルナンド(ナバラ王サンチョ大王の次男)が、1038年に死去した妻の兄からレオン王位を継承した際に王国に格上げされた。1065年にフェルナンド大王が死ぬと、長男のサンチョが継承。以後、次男アルフォンソのレオン王国と分割相続・併合を繰り返したが、1230年以降両国は常に同じ王を戴くことになった(レオン=カスチラ王国)。

-''ガリシア王国(スペイン・ガルシア王国)''(1065年〜1071年)
-''ガリシア王国(スペイン・ガリシア王国)''(1065年〜1071年)
イベリア半島の北西部。レオン・カスチラのフェルナンド大王が1065年に死んだとき、三男ガルシアに与えられた。1071年にガルシアが死ぬと後継者がなく、カスチラ王サンチョに併合されて消滅した。

-''アラゴン王国''
ナバラ王サンチョ大王の死後、その庶子ラミロに与えられた王国。1164年に王家が絶え、最後の女王の夫のバルセロナ伯家に併合された。レコンキスタを進めると同時に、地中海方面に勢力を伸ばし、1282年にはシチリアの王位をも獲得した。

-''ポルトガル王国''
ガリシア南部のポルトゥカーレ伯領、コインブラ伯領を母胎に発生した王国。伯家の断絶した両伯領を、1097年にレオン・カスチラ王アルフォンソ6世はブルゴーニュ公家のエンリケ(アンリ)に委ねたのだが、1139年、エンリケの息子のアフォンソは早くもポルトガル王を称し、アルフォンソ6世の孫のアルフォンソ7世に独立戦争を挑んだ。結局1143年、アルフォンソ7世はポルトガルの独立を承認。1179年には教皇の承認も得て完全な独立を達成した。

-''後ウマイヤ朝''(756年〜1031年)
750年のウマイヤ朝の滅亡を受け、その生き残りがスペイン(イスラム教徒の言い方で言えばアル・アンダルス)に建てた王朝。当初はカリフではなくアミール(将軍、あるいは総督)という称号で統治を行ったが、アフリカでシーア派のファティマ朝が勢力を拡大すると、これに対抗するためにカリフを称した。10世紀の末頃からカリフは傀儡となり、内紛の末に1031年に自壊した。

-''ムラービト朝''(アルモラヴィド朝、1056年〜1147年)
スンニによってモロッコの南に建国された新興国家。同じイスラム教徒だがシーア派に属するファティマ朝とは対立関係にあった。聖戦意識が強く、イスラム系の群小王朝の要請を受けて盛んにイベリア半島に援軍を送った。しかし度重なる遠征のうちにイベリア半島の魅力に気づいたらしく、1087年、同じイスラム教徒の諸侯に牙をむき、半島南部を征服した。
しかしその後は次第に怠惰な生活におぼれ、当初の強力な軍隊は失われた。1130年にモロッコでムワッヒド朝が兵を挙げると、ムワッヒド朝とキリスト教国の挟み撃ちにあって滅亡した。

-''ムワッヒド朝''(アルモハード朝、1130年〜1225年頃)
ムラービト朝の堕落を非難し、宗教改革を掲げて成立した王朝。1146年にはイベリア半島に上陸し、ムラービト朝から独立していたスペインのイスラム系群小王朝を征服した。しかし、1195年には本拠地モロッコでマリーン朝が成立、1212年に十字軍に敗北すると一気に崩壊した。ムワッヒド朝の崩壊後に発生した群小王朝は、キリスト教諸国に各個撃破され、カスチラに臣従したナスル朝を除いてすべて滅亡した。

-''ナスル朝(グラナダ)''(1232年〜1492年)
ムワッヒド朝が滅亡し、諸侯が乱雑するイベリア半島でハエンの小国であったイブン・アル・アフマルが、グラナダを占領して建国した。イベリア半島最後のイスラム教国として、アフリカのイスラム諸国の援助を受け、キリスト教圏と対抗していた。その傍らで、地方の反乱にはキリスト教国の力を利用するなど外交にたけた国家でもあった。それを可能にしたのは、宮殿と都市を極限にまで城塞化した難攻不落のアルハンブラ要塞の存在があったからだとも言われている。

1469年、レオン・カスチラの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚した。イサベルは1474年にレオン・カスチラの女王となり、次いでフェルナンドも1479年にアラゴン王となった。これによって三つの王国は一組の夫婦によって支配されることになった。スペイン王国の成立である。
新興国家スペインはイベリア半島最後のイスラム教国、ナスル朝に襲いかかった。1492年、ついにアルハンブラが陥落。かくしてレコンキスタは終結する。
同年、コロンブスが西インド諸島に到達。スペインの拡大はイベリア半島から新大陸へと舞台を移していく。

***聖地サンチアゴ・デ・コンポステラ
イベリア半島では古くから、十二使徒のひとり大ヤコブ(サンチアゴ)の崇拝が盛んであった。いつしか、「大ヤコブがイベリア半島への布教を行った」とか、「大ヤコブの死後弟子たちは遺体を神の手に委ねるため、船に乗せて海に流した。船はガリシア地方のどこかに流れ着いた」などといった伝説が生まれた。
9世紀初め、アストゥリアス王国支配下のガリシアで、大ヤコブの墓が発見された。伝説によれば、夜に明るい星が野原の上に輝いているのを見つけたある司祭が、その野原を掘って遺体を発見したという。アストゥリアス王アルフォンソ2世はその野原に聖ヤコブ教会を建てた。教会の周りに町ができ、「サンチアゴ・デ・コンポステラ」と呼ばれた。星の野原の聖ヤコブという意味である。
1071年にセルジューク朝がエルサレムを占領すると、エルサレムへの巡礼ができなくなった。代わりの巡礼地として人々を集めたのが、ローマとサンチアゴ・デ・コンポステラだった。今でもガリシア地方に行くと、サンチアゴ巡礼を行う旅人たちを目にすることができる。

*ヨーロッパ簡易歴史
**欧州の歴史?
キリスト教の宗主の座を巡りコンスタンチノープル教会(ギリシア正教)とローマ教皇(カトリック)は対立していたが、東ローマ帝国の後押しを受けていたコンタンチノープル教会におされていた。
そのためローマ教皇は西ローマ帝国の復活を画策。西暦800年フランク王カール大帝を西ローマ帝国皇帝とした。
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**欧州の歴史?
カール大帝の子のルイ敬虔王は817年、長男ロタールにイタリアを、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒにバイエルンを任せた。ところが四男シャルルが生まれ、シャルルの母の実家のヴェルフェン家がシャルルにも領土を要求したことにより、フランク王国は内乱に陥った。内乱の末に生まれたのが、ロタールの子孫のイタリア王国、ルートヴィヒの子孫の東フランク(ドイツ)王国、シャルルの子孫の西フランク(フランス)王国である。これが現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型となった。
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**欧州の歴史?
その後10世紀に入ると、東フランク王国ではカロリング朝の血統が絶えて、諸侯の選挙によって新しく王を戴くことになる。
西暦962年オットー一世はローマ教皇により皇帝を冠され東フランク王国は神聖ローマ帝国となるが、諸侯たちの選挙で君主を決める制度は固定し、以後皇帝は選挙により選ばれることとなった。また西フランク王国でも10世紀の終わりには、カロリング朝の血統は絶え、あらたにユーグ・カペー(西フランク王ロベール1世の孫)が王となりカペー朝として生まれ変わる。
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***海賊王
この時代、海賊(バイキング)が暴れまわっていたが確たる対策も出来ずにいた。
討伐が難しいと判断した西フランク王シャルル三世は臣下に加えることにきめる。
バイキングの首領ロロはシャルル三世の妹と結婚し、ノルマンディー公に封じられた。
ノルマンディー公は配下のバイキングやノルマン人達を次々領地に迎え入れると
一大勢力を築き上げる。
1066年、ノルマンディー公ウィリアムはグレート・ブリテンに進撃しこれを制圧。
イングランド(イギリス)王初代国王ウィリアム一世となる。
*イスラム簡易歴史
**イスラムの歴史?
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預言者マホメット(ムハンマド)がイスラム教を創設し、アラブ世界は大きく変動する。独立勢力が個々に動いていたアラビア半島は、西暦630年マホメット(ムハンマド)の軍勢がメッカに入ったことで、イスラム教の元に統一された。
マホメット(ムハンマド)の死後、後をついだ初代正統カリフ:アブー・バクル、二代目正統カリフ:ウマルがアラーの教えを広めるために東ローマ帝国やペルシャ帝国と戦い、領土を拡張していく。正統カリフの時代に大きく領土は拡張された。638年には聖都エルサレムをイスラムの支配下に置き、西暦651年にはペルシャを滅亡させた。連戦連勝の内にエルサレムまでも領有したイスラムは「ユダヤ教もキリスト教も、同じ唯一神を信じる同士である」と寛大な態度をみせた。これもイスラムの教えを広めることに成功した勝利者の余裕であろう。敗北者が選ぶことのできる「コーラン、剣、あるいは税」イスラム教に改宗してコーランを読むか、剣によって死ぬか、あるいは税金をおさめてそのまま信仰を続けるか…はここから来ている。当然、聖地を奪い取られたキリスト教は寛大な心など持てるはずもなく、イスラム教を異端として敵視することになる。
**イスラムの歴史?
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最後の正統カリフ・アリーの死後、ウマイヤ一族はカリフを名乗りイスラムを統治した。ウマイヤ朝の始まりである。東は中国の唐にまで戦い進み、南はエジプトを中心にアフリカの地中海沿岸を制圧。西ではイベリア半島をも支配した。この最大領土を有したのは、アジアに向うシルクロードを支配したことによる財貨の入手はもちろんのこと、アジアの多くの芸術や文化を手に入れ、さらにアフリカ沿岸を支配したことにより古代ギリシャやローマの学問をも手に入れことが大きかった。イスラムは世界に並ぶこと無き高度な文明へと発展し、フランク王国や東ローマ帝国は様々な面でイスラムに大きく水をあけられることになる。
**イスラムの歴史?
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預言者マホメット(ムハンマド)の叔父アッバースの一族が台頭し、アッバース朝が誕生すると、ウマイヤ朝はイベリア半島へとおいやられ東西にイスラム帝国が分裂することになる。アッバース朝は自らカリフを名乗るとバクダットを首都として交易を発展させた。この時期の交易はアジア、インド、地中海、アフリカ・ガーナ王国にまで交易路はのび、バクダットは交易の中心地として栄え様々な文化が流入した。特にアッバース朝第五代カリフ:ハールーン・アッラシード(766〜806)の時代がアッバース朝の全盛期だと言われている。
**イスラムの歴史?
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アッバース朝の力が弱まると、アッバースに支配されていた各地が独立決起した。イスラム世界の戦国時代である。サーマン朝(875年独立)を初め、ガズニ朝(962年独立)やカラハン朝(960年独立)といった国々が覇を競い合っていた。独立国家の中には虐げられていたシーア派の国家ファーティマ朝(909年に独立)や、ブワイフ朝(932年独立)も存在した。ブワイフ朝は946年にバクダットを制圧、アッバース朝を支配下においた。アッバース朝は有名無実と化したが、滅亡しなかったのはアッバース朝はイスラム最大勢力スンニ派の宗教指導者「カリフ」の国家ゆえに、下手に滅亡させるとイスラム全土を敵にまわしかねないというブワイフ朝の憂慮からであった。イスラムの戦国時代において、特に珍重されたのがトルコ人兵士達であった。勇猛果敢な彼らを諸侯はこぞって迎え入れたが、トルコ人達の独立意識は高まりカズニ朝、セルジューク朝(セルジューク・トルコ)が誕生した。
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後のオスマントルコの母体ともなったセルジューク・トルコは瞬く間に周囲を制圧し巨大勢力へと膨れ上がった。そして西方に進撃するとブワイフ朝を撃破してバクダット入城を果たす。
1071年、ビザンツ軍をうち破り、皇帝ロマヌス4世をとらえたセルジューク・トルコはエルサレムを占領、キリスト教徒への迫害を始めた。
かくして十字軍の時代が始まる。


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