クルセイダーキングス<十字軍の時代>

1066年 欧州中東情勢

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十字軍の発端 乱世のイスラム

アッバース朝の崩壊により戦国時代に突入していたイスラム世界で、トルコ人達の隆起によって建国されたセルジューク朝トルコは勢力を伸ばしていた。
当時、アッバース朝はブワイフ朝に圧迫され、単なる宗教権威でしかなくなっていた。
そのため1055年にセルジューク・トルコがバグダットに入城を果たしブワイフ朝よりアッバース朝を解放すると、アッバース朝はセルジューク・トルコを解放軍として称えたのである。
そしてアッバース朝のカリフは、スルタンの称号をセルジューク朝トルコの君主トゥグリル・ベクに贈り、
各地の侵攻を「イスラム教布教のために行われる」ものとして大いに推奨した。セルジューク・トルコ帝国の始まりである。

イスラム世界の頂点へと上り詰めたセルジューク・トルコ。
セルジューク朝・第2代スルタン:アルプ・アルスラーンは、アラーの教えを広めるべくビザンツ帝国(東ローマ帝国)に侵攻を開始。
軍をアルメニアの地へと向けるのであった…




宗教対立

1066年現在、世界は大きく、キリスト教カトリック、キリスト教ギリシャ正教、そしてイスラム教(スンニ派/シーア派)の三つに分かれている。
現状では、カトリックとギリシャ正教はキリスト教の宗主の座を巡り争っているが、イスラムを敵視している姿勢に変わりはない。

後年、キリスト教の総本山(と一般的に言われる)カトリックのローマも、この時点ではまだ、ギリシャ正教と激しい主導権争いの渦中にあった。
こののち、一時はカトリックを凌ぐ勢いをみせていたギリシャ正教も、後ろ盾であった東ローマ帝国がイスラム諸勢力との戦いに敗れ滅亡したため、その権勢も大きく後退することになる。ローマ・カトリックは、第一次十字軍においてエルサレムを奪還し、存在感を大いに見せつけギリシャ正教を圧倒したが、度重なる十字軍出兵により欧州が疲弊したため、その権威は縮小することになる。

宗教権威とカノッサの屈辱

1066年現在において、宗教の力は絶大であった。1077年におきた「カノッサの屈辱」はそれを最も端的に表している。
1077年、ドイツ国王(神聖ローマ帝国皇帝)ハインリヒ4世がローマ教皇に破門を解いてもらうべく、ローマ教皇グレゴリウス7世にのいたカノッサ城へ向かい、冬の最中に裸足で許しを乞うた事件である。
事の発端は、ローマ教皇グレゴリウス7世が司教の任命をローマ教皇が行うと神聖ローマ帝国に通達したことにある。これに対しローマ皇帝ハインリヒ4世は猛反発し「司教を任命するのは教皇ではなく皇帝である」と宣言し教皇の廃位を決定した。この宣言をカトリックに対する挑戦と受け止めたグレゴリウス7世は直ちに皇帝ハインリヒ4世を破門する。驚いたのは皇帝ハインリヒ4世よりも、その臣下達であった。ドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯は皇帝ハインリヒ4世の破門がとかれない場合は、廃位して新たな王を立てることを決定する。臣下達が総て敵に回り、皇帝は愕然とした。この時期、ハインリヒ4世に対する敵対勢力も少なくはなく、彼らが先導したのも確かだが、そもそも神聖ローマ帝国の始まりである東フランク、フランク王国(西ローマ帝国)はカトリックを後援すべく立てられた帝国である。神聖ローマ帝国の「神聖」とは「カトリック」「ローマ教皇」に対するものなのである。すなわちハンリヒ4世の宣言は神聖ローマ帝国の存在そのものを否定したといってよく、支持が得られないのも道理であった。そのため、ハインリヒ4世は教皇に破門を解いてもらうべくカノッサへと向かうことをよぎなくされた。
これを「カノッサへの道」(和訳「カノッサの屈辱」)と呼ばれた。
この事件の後「例え皇帝であろうとも教皇の許可なくば何もできない」という事実を世間に知らしめ、宗教権威の巨大さを改めて認識させることとなった。

破門を解かれたハンリヒ4世は、その後司教の叙任権をめぐって再び教皇グレゴリウス7世と対立する。この時は軍勢を率いてローマを囲み教皇グレゴリウス7世をローマより放逐した。

なお「司教就任の決定は、教皇と皇帝どちらにあるのか?」という問題は、
1122年、ウォルムスにおいて協定が結ばれ「教皇に就任権がある」ということで決着した。

イベリア半島情勢 -西方の十字軍-

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レコンキスタ<国土回復運動>

レコンキスタとは、異教徒によって占領された土地を奪還しよう!という動きのことである。
具体的には八世紀の初め、イスラムのウマイヤ朝によって支配されたイベリア半島の奪還を目的としていた。そのため、レコンキスタ<国土回復運動>は「西方の十字軍」とも言われている。

1066年現在、既に後ウマイヤ朝は政治的混乱の末崩壊しており、タイファと呼ばれる旧ウマイヤ朝の軍閥が独立して割拠しており統一した行動はとれなくなっていた。

その後、十字軍の活躍によって、イベリア半島のタイファは弱体化を強いられ、キリスト教国に金を払って平和を買うようになる。困り果てたタイファはモロッコのムラービト朝、次いでムワッヒド朝に助けを求めた。ムラービト朝やムワッヒド朝は一時的にレコンキスタを食い止めはしたものの、後にそれらの干渉を嫌ったタイファにより再び影響力が排除され、大きな流れを変えることはできなかった。1228年にムワッヒド朝が崩壊すると、アラゴン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国の軍が南下を開始、イベリア半島の大半の征服に成功した。これによってカスティーリャ王国に臣従して命長らえたナスル朝グラナダ以外の全土がキリスト教徒の支配下に入った。ナスル朝は欧州にイベリア半島を奪還されまいと1492年まで抵抗を続けていたが、スペイン王国(アラゴン王国とカスティーリャ王国が王族の結婚によってスペイン王国として統一されていた)の攻撃を受けて降伏。イベリア半島のイスラム教は掃討された。

1469年、レオン・カスチラの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚した。イサベルは1474年にレオン・カスチラの女王となり、次いでフェルナンドも1479年にアラゴン王となった。これによって三つの王国は一組の夫婦によって支配されることになった。スペイン王国の成立である。
新興国家スペインはイベリア半島最後のイスラム教国、ナスル朝に襲いかかった。1492年、ついにアルハンブラが陥落。かくしてレコンキスタは終結する。
同年、コロンブスが西インド諸島に到達。スペインの拡大はイベリア半島から新大陸へと舞台を移していく。

聖地サンチアゴ・デ・コンポステラ

イベリア半島では古くから、十二使徒のひとり大ヤコブ(サンチアゴ)の崇拝が盛んであった。いつしか、「大ヤコブがイベリア半島への布教を行った」とか、「大ヤコブの死後弟子たちは遺体を神の手に委ねるため、船に乗せて海に流した。船はガリシア地方のどこかに流れ着いた」などといった伝説が生まれた。
9世紀初め、アストゥリアス王国支配下のガリシアで、大ヤコブの墓が発見された。伝説によれば、夜に明るい星が野原の上に輝いているのを見つけたある司祭が、その野原を掘って遺体を発見したという。アストゥリアス王アルフォンソ2世はその野原に聖ヤコブ教会を建てた。教会の周りに町ができ、「サンチアゴ・デ・コンポステラ」と呼ばれた。星の野原の聖ヤコブという意味である。
1071年にセルジューク朝がエルサレムを占領すると、エルサレムへの巡礼ができなくなった。代わりの巡礼地として人々を集めたのが、ローマとサンチアゴ・デ・コンポステラだった。今でもガリシア地方に行くと、サンチアゴ巡礼を行う旅人たちを目にすることができる。

十字軍概要

1095年から1291年までの200年間に9回行われた、カトリック教国による中東侵攻。第一回はイスラム勢力の伸張に手を焼いたビザンツ帝国の求めにカトリック教会と諸侯が応じた形で、エルサレム王国を成立させるなど成功した。第三回十字軍(1187)ではサラディンとリチャード獅子心王の対決があったが、カトリック側は撤退。第四回(1202)では味方であるはずのビザンツ帝国がベネチア共和国勢を中心とした十字軍により一時的に滅亡させられる事態が起きた。第六回(1228)では神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇の意向に背いてイスラム勢力と平和条約を締結。その後も散発的に十字軍は行われたが、実質的な戦果を挙げることはなかった。

北方十字軍と東方十字軍

ドイツ騎士団を中心とした勢力によって現在のバルト三国地方に向かって行われた植民活動が北方十字軍と呼ばれる。異教徒である原住者たちはの多くは虐殺されるか奴隷として連れ去られた。ドイツ騎士団はポーランドなど東欧諸国とも戦ったが、ポーランド王国がカトリックに転向すると、この戦いは単なる領土戦争にすぎなくなった。イスラム勢力の支配下にあったバルカン半島への侵攻など、東欧に向かって行われた侵攻を総称して東方十字軍と言うこともある。

ヨーロッパ簡易歴史

欧州の歴史? 西暦500年〜

キリスト教の宗主の座を巡りコンスタンチノープル教会(ギリシア正教)とローマ教皇(カトリック)は対立していたが、東ローマ帝国の後押しを受けていたコンタンチノープル教会におされていた。
そのためローマ教皇は西ローマ帝国の復活を画策。西暦800年フランク王カール大帝を西ローマ帝国皇帝とした。
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欧州の歴史? 西暦800年〜

カール大帝の子のルイ敬虔王は817年、長男ロタールにイタリアを、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒにバイエルンを任せた。ところが四男シャルルが生まれ、シャルルの母の実家のヴェルフェン家がシャルルにも領土を要求したことにより、フランク王国は内乱に陥った。内乱の末に生まれたのが、ロタールの子孫の中フランク王国、ルートヴィヒの子孫の東フランク(ドイツ)王国、シャルルの子孫の西フランク(フランス)王国である。中フランク王国はあまりに縦長だったため、北半分はドイツとフランスに併合され、南半分がイタリア王国として残りった。これが現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型となった。東西フランク王国に併合された地は「ロタールの王国」の意でロートリンゲン(独)、ロレーヌ(仏)と呼ばれ、後々まで両国の係争地となった。
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欧州の歴史? 西暦1000年〜

その後10世紀に入ると、東フランク王国ではカロリング朝の直系子孫が絶えて、諸侯の選挙によって新しく王を戴くことになる。
西暦962年オットー一世はローマ教皇により皇帝を冠されローマ皇帝となるが、帝位は世襲と諸侯たちの選挙という二重基準で行われるようになったため、皇帝の権威は高まらなかった。12世紀頃から東フランク王はドイツ王と呼ばれるようになり、そのドイツ王位と空位となったイタリア王位をローマ皇帝が占め、皇位継承者にはローマ王が与えられる慣習ができた。この東フランク(ドイツ)王国、ロートリンゲン王国、イタリア王国、を統べる帝国は当初ローマ帝国と呼ばれ、13世紀頃から神聖ローマ帝国と名乗るようになった。

西フランク王国でも10世紀の終わりには、カロリング朝の直系は絶え、あらたにカロリング朝の傍系でパリ伯であったユーグ・カペー(西フランク王ロベール1世の孫)が王となり、カペー朝フランク王国が誕生する。この国は後に訛ってフランス王国と呼ばれるようになる。
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海賊王

この時代、ノルマン人の一派のヴィーク人とも呼ばれる海賊、いわゆるバイキングが暴れまわっていたが、当時の封建領主たちは確たる対策もできずにいた。彼らはたびたび北ヨーロッパの沿岸地帯を襲い、時には交易しながら移動していた。

討伐が難しいと判断した西フランク王シャルル三世は臣下に加えることにきめる。
バイキングの首領ロロはシャルル三世の妹と結婚し、ノルマンディー公に封じられた。
ノルマンディー公は配下のバイキングやノルマン人達を次々領地に迎え入れると
一大勢力を築き上げる。
1066年、ノルマンディー公ギョームはグレート・ブリテン島に侵攻し制圧。初代ノルマン朝イングランド王ウィリアム一世となる。

ノルマン人はアイスランドからグリーンランドまで移住し、ついには北米大陸に到達したという伝説もある。またある一派は地中海沿岸を襲撃しつつ中東までたどり着いた。別の一派は東ヨーロッパを南下しビザンツ帝国に仕え、また西方に進みルーシ公国を建てたのもノルマン人であったとも言われる。

ヘイスティングズの戦い

前のイングランド王エドワード告解王(1003〜1066)が後継者を残さずに死ぬと、イングランド王位の継承をめぐる争いが勃発した。ウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソン(1022頃〜1066)は、他の競争者に先んじて王位を我が物とした。ハロルドは当時イングランド最強の人物と目され、北方の歩兵戦術を熟知し練達の軍隊に支えられていた。

しかし、フランスに強力なライバルがいた。ノルマンディー公ウィリアム(1027〜87)である。ウィリアムはエドワード告解王が生前、次のイングランド王に彼を指名していたということを根拠にイングランド王位を要求した。彼は機動、偵察、補給などの戦術に長けた指揮官であった。

両軍は1066年10月14日にイングランド南岸の町ヘイスティングズから北に11キロの地点で相対した。ノルマンディー軍は6000〜7000人、槍と剣で武装した騎士、弓と長槍を装備した歩兵で構成されていた。イングランド軍はそれよりもわずかに多く、斧や剣を武器とする歩兵が中心であった。彼らは馬を移動に用いたが、それを騎兵として活用する戦術に疎かったのだ。また、弓兵が不足していた。

イングランド軍は、ロンドンから長躯進軍し14日早朝早くも布陣を完了した。前面になだらかな平地を配し、両翼を川に守られた絶好の地形である。ハロルドの竜の軍旗を見晴らしの良い丘の上に掲げノルマンディー軍の攻撃に備えた。敵に地の利を占められたウィリアムは軍を三つに分け、それをさらに前後三列に配備した。前列が弓兵、中列が重武装の槍兵、後列が騎兵である。

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朝9時頃、戦いはノルマンディー軍の先攻で始まった。ノルマンディー軍の弓兵はハロルドの軍に矢の雨を降らせた。イングランド軍は、それに対し北方の伝統的な歩兵戦術「盾壁」で対抗した。長大な盾を壁のように並べ、敵の攻撃の一切を無効化しようというのである。ノルマンディー軍の攻撃が効果を上げないと見るや、イングランド軍は高所に陣取った利点を生かし敵に「坂落とし」をかけた。

ノルマンディー軍の前線は崩れた。また、ウィリアム戦死の噂が流れ、彼の援軍であるブルターニュ諸侯たちが戦線を離脱して本国に帰ろうと浮き足立った。自分の健在な姿を見せ、ウィリアムはなんとかこれを押し留めた。この敵の混乱に対し、機動力のない鈍重なイングランドの歩兵は畳み掛けることができなかった。

ウィリアムの軍は反撃を行った。盾壁を崩すために弓兵は騎兵を援護し、騎兵は敵の戦線の破れ目を突くのである。さらに、臨時雇いの一団(偽軍)を動かしイングランド軍に圧力を加えた。この共同作戦によりハロルドの軍は動揺し、混乱した歩兵は各所で寸断、撃破された。イングランド軍はよく耐えていたが、ハロルドの兄弟たちが戦死するとこれを支えることができなくなった。壊走する中ハロルドは顔を射られ、怯んだところを騎士の一隊に切り殺された。

こうして、ヘイスティングズの勝利はウィリアムのものとなった。序盤ハロルドの軍は、盾壁で相手の攻撃をよく防ぎ、得意の戦斧で打撃を与えたが、機動力を持ち合わせない彼の軍は勝利を決定付けることができなかった。一方ウィリアムの軍は、機動力と柔軟性を持ち併せ、各部隊が共同作戦を行えるまでによく訓練されていた。これは、ウィリアムがこの遠征前、ノルマンディーで軍を訓練した成果であった。ウィリアムのこの用意周到さと戦場における臨機応変が、彼に勝利をもたらした。

ノルマン人の南イタリア征服

ノルマンディー公によるブリテン島遠征がされるより少し前、11世紀初頭に南イタリアに渡ったノルマン人がいた。当時の南イタリアは、ビザンツ帝国領と、ビザンツ帝国に形式的に従う領主(ナポリ公など)、そしてランゴバルド王国の生き残りであるゲルマン人系の独立勢力(サレルノ伯、カプア伯など)が争っていた。最初の接触は巡礼のためにこの地を通ったノルマン人が勢力争いに傭兵として加わったことだといわれている。かれらは徐々に力を蓄え、ノルマンディーから一族郎党を呼び寄せ始めた。当時のノルマンディーは安定しており、支配者層の人口は過剰気味になっていた(これはウィリアムのブリテン島遠征の理由の一つでもある)。

1030〜1050年頃までにフランス・オートヴィル地方から移住したとある兄弟の一団は、南イタリアのノルマン人コミュニティで頭角を現し、長兄ギヨームはアプーリア伯となった。それから伯位を受け継いだ弟ドロゴ、オンフロワらはさらに支配を強め、彼らの死後に地位を継いだその下の弟ロベール・ギスカールの代には1070年頃に南イタリアほぼ全域を支配する影響力を持つに至った。そしてイタリアから神聖ローマ皇帝の影響を排除したかった教皇の意向もあり、アプーリア公を授かった。末弟ロジェは兄の助力の下でシチリア島を征服し、全島を与えられシチリア伯を名乗った。

その後、ロベールはビザンツ帝国征服の遠征途上で病死。跡を継いだのは子のロジェ・ボルサであったが、それに反発した庶兄ボエモンはタラント候を名乗って独立し、内紛によりアプーリア公家は急速に衰退した。シチリア伯の叔父ロジェはロジェ・ボルサを表向きには支持したが、本家の争いに乗じてイタリア本土への影響力を強めていった。また、ボエモンは第一回十字軍に参加し、レバントにてアンティオキア公国を建国する。

シチリア伯ロジェが没すると、跡を継いだ息子ロジェ2世は分裂状態にあった本家アプーリア公家とタラント侯国を併合し、教皇庁の内紛の恩恵もあって1130年にシチリア王を授けられた。
ギリシャ=ビザンツ、イスラム世界、キリスト教世界の交差点にあったこの王国は繁栄しギヨーム2世の代には十字軍にも参戦した。12世紀末に直系男子が途絶えると、王位は女系を通して神聖ローマ皇帝の手に渡り、そののちアラゴン王国とフランス・アンジュー家が争うことになった。
のちのシチリア王国(ナポリ王国、両シチリア王国)と区別して、これらはノルマン朝シチリア王国などと呼ばれる。

イスラム簡易歴史

イスラムの歴史?

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預言者マホメット(ムハンマド)がイスラム教を創設し、アラブ世界は大きく変動する。独立勢力が個々に動いていたアラビア半島は、西暦630年マホメット(ムハンマド)の軍勢がメッカに入ったことで、イスラム教の元に統一された。
マホメット(ムハンマド)の死後、後をついだ初代正統カリフ:アブー・バクル、二代目正統カリフ:ウマルがアラーの教えを広めるために東ローマ帝国やペルシャ帝国と戦い、領土を拡張していく。正統カリフの時代に大きく領土は拡張された。638年には聖都エルサレムをイスラムの支配下に置き、西暦651年にはペルシャを滅亡させた。連戦連勝の内にエルサレムまでも領有したイスラムは「ユダヤ教もキリスト教も、同じ唯一神を信じる同士である」と寛大な態度をみせた。これもイスラムの教えを広めることに成功した勝利者の余裕であろう。敗北者が選ぶことのできる「コーラン、剣、あるいは税」イスラム教に改宗してコーランを読むか、剣によって死ぬか、あるいは税金をおさめてそのまま信仰を続けるか…はここから来ている。当然、聖地を奪い取られたキリスト教は寛大な心など持てるはずもなく、イスラム教を異端として敵視することになる。

イスラムの歴史?

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最後の正統カリフ・アリーの死後、ウマイヤ一族はカリフを名乗りイスラムを統治した。ウマイヤ朝の始まりである。東は中国の唐にまで戦い進み、南はエジプトを中心にアフリカの地中海沿岸を制圧。西ではイベリア半島をも支配した。この最大領土を有したのは、アジアに向うシルクロードを支配したことによる財貨の入手はもちろんのこと、アジアの多くの芸術や文化を手に入れ、さらにアフリカ沿岸を支配したことにより古代ギリシャやローマの学問をも手に入れことが大きかった。イスラムは世界に並ぶこと無き高度な文明へと発展し、フランク王国や東ローマ帝国は様々な面でイスラムに大きく水をあけられることになる。

イスラムの歴史?

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預言者マホメット(ムハンマド)の叔父アッバースの一族が台頭し、アッバース朝が誕生すると、ウマイヤ朝はイベリア半島へとおいやられ東西にイスラム帝国が分裂することになる。アッバース朝は自らカリフを名乗るとバクダットを首都として交易を発展させた。この時期の交易はアジア、インド、地中海、アフリカ・ガーナ王国にまで交易路はのび、バクダットは交易の中心地として栄え様々な文化が流入した。特にアッバース朝第五代カリフ:ハールーン・アッラシード(766〜806)の時代がアッバース朝の全盛期だと言われている。

イスラムの歴史?

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アッバース朝の力が弱まると、アッバースに支配されていた各地が独立決起した。イスラム世界の戦国時代である。サーマン朝(875年独立)を初め、ガズニ朝(962年独立)やカラハン朝(960年独立)といった国々が覇を競い合っていた。独立国家の中には虐げられていたシーア派の国家ファーティマ朝(909年に独立)や、ブワイフ朝(932年独立)も存在した。ブワイフ朝は946年にバクダットを制圧、アッバース朝を支配下においた。アッバース朝は有名無実と化したが、滅亡しなかったのはアッバース朝はイスラム最大勢力スンニ派の宗教指導者「カリフ」の国家ゆえに、下手に滅亡させるとイスラム全土を敵にまわしかねないというブワイフ朝の憂慮からであった。イスラムの戦国時代において、特に珍重されたのがトルコ人兵士達であった。勇猛果敢な彼らを諸侯はこぞって迎え入れたが、トルコ人達の独立意識は高まりカズニ朝、セルジューク朝(セルジューク・トルコ)が誕生した。
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後のオスマントルコの母体ともなったセルジューク・トルコは瞬く間に周囲を制圧し巨大勢力へと膨れ上がった。そして西方に進撃するとブワイフ朝を撃破してバクダット入城を果たす。
1071年、ビザンツ軍をうち破り、皇帝ロマヌス4世をとらえたセルジューク・トルコはエルサレムを占領、キリスト教徒への迫害を始めた。
かくして十字軍の時代が始まる。


*1 現在、ギリシャ正教会と言えばギリシャ共和国の正教会の方を指す場合もあるが、CKでは当然東方正教会そのものの事である。

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