[[イルカの主]]

*聖戦王ギョーム1世(1267-1279)

1267年、穏健王といわれたジャック1世の死後、
彼の息子がサヴォイ公ギョームしかいなかったため、ギョームが新しいブルゴーニュ王となった。

その翌年の1268年、ギョーム1世はサヴォイ公の地位に長男であるジョセフをおいた。
これにより、領土が安定したため、ギョーム1世は他国への侵略を画策していた。
そしてギョーム1世が目をつけたのはフランス王国から独立していたヌベール伯であった。

1269年、ギョーム1世は一軍を率いてヌベール伯に宣戦布告をした。
ヌベール伯に同盟国は無く一月で決着がついた。
これによってブルゴーニュ地方全土がブルゴーニュ王国のものとなった。

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1270年、バレンシア公とムルシア公がコルドバ太守から宣戦布告を受ける。
無論、ギョーム1世はこの2つの公爵を援助するためにコルドバ太守に宣戦布告をした。
この戦いには、ラングドック公とサヴォイ公、プロヴァンス公も援軍に加わり、
ブルゴーニュ王国の威信をかけた戦いとなった。

まず、ギョーム1世はコルドバ太守が持つピレネー山脈の麓にあるスペイン辺境地方へ進軍した。
そこにあったウルヘルとロサスを3ヶ月かけて占領した。
ラングトック公マークはスペイン中央部に進軍、
プロヴァンス公タンクレーディはバレンシア公の援軍、
そして、サヴォイ公ジョセフはムルシア公の援軍としてそれぞれ突き進んだ。

この戦いは3年間にも及ぶ戦いとなった。この戦いで多くの将兵が戦死した。
だが、この戦いでコルドバ太守は消え、スペイン中央部の半分近くがブルゴーニュ王国のものとなった。
この戦いは3年間にも及ぶ戦いとなり、多くの将兵が戦死した。
だが、この戦いでコルドバ太守は消え、スペイン中央部の半分近くがブルゴーニュ王国の領土となった。
この戦いの後、ギョーム1世はスペイン辺境公にシュバイツ公アレンの弟であるアンリを起用する。
彼の立場を考えてのことであった。
さらに、多くの家臣にスペイン中央部の土地を与え、参戦した公爵達にも礼として多額の褒章を与えた。
特に、伯爵の中でも功績のあったバルセロナ伯にはカタロニア公の地位を授けた。

後に、この戦いはコルドバ戦争と呼ばれるようになる。

戦争が終結したこの年、サルレス伯ギョームに長男が誕生した。
その子はギルバーと名付けられた。
このギルバーはギョーム1世の娘であるジェシカとの間に生まれた子であるため、
ギョーム1世にとっては孫に当たる存在であった。

同じくこの年、マリョルカ公エルドリックが死去した。
彼の後継には多くの問題があった。
長男のメノルカ伯オーレイエンは私生児であり、
次男タルピンは数年前に発狂し、まともに統治すら出来る状況ではなかった。
しかし、私生児の後継は認められていなかったため、タルピンがマリョルカ公となった。

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1275年、シュバイツ公アレンが他界した。
その後継にはシュバイツ伯となっていた彼の長男ゴーシュが就いた。

そしてこの年、マリョルカ公タルピンに対して彼の異母兄であるメノルカ伯オーレイエンが反乱の起した。
この反乱に関しては諸侯とも関わらないようにしていた。
その結果、マリョルカ公タルピンがメノルカ伯オーレイエンの軍を破り、彼を追放したのである。

1276年、ラングトック公マークに長男が誕生した。その子はミシェルと名付けられた。

ちょうどその頃、イングランド王国でノーフォーク公が反旗を翻したのである。
それに呼応したロンドン周辺の諸侯も反乱を起し、イングランド王国は内戦状態となったのである。
この内乱にはスコットランド王国とスウェーデン王国が関与した。
だが、ギョーム1世はこの内戦に関与はしない方針を打ち出した為、
ブルゴーニュ王国は巻き込まれることは無かった。

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1278年、ギョーム1世に衝撃が走った。
なんと長男であるサヴォイ公ジョセフが病に倒れそのまま他界したのである。
ギョーム1世はこの死を悲しむあまり、病にかかってしまう。
ジョセフには子供がいなかったため、弟のフィリップが新しいサヴォイ公となった。

1279年、ギョーム1世はジョセフの後を追うように他界した。
コルドバ戦争で中央イベリアをカトリックの元に返したその功績から聖戦王とよばれた。
彼の後継には、去年サヴォイ公となったばかりのフィリップがブルゴーニュ王に即位することとなった。

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#ref(ドルフィン家系図1279.GIF)
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