*独立公ゲルハルトの治世

 新たなマイセン公は、すでに3男2女をもうけていた。そのうち三男は世を去り、存命中の子供は4人である。
 世継ぎの長男ルードヴィッヒは22歳、次男カルロマンは20歳。長女オシュテルヒルトが19歳、次女ウルスラが14歳である。ウルスラは若くして持病を患っていた。

 1138年、クロアチア王国および、イタリア北部のミラノ、トスカナ両公国より相次いで同盟の使者が訪れた。マイセン公はこれをすべて承諾した。
 翌年、2世代前、伯爵時代の君主であった、隣国チューリンゲン公国が神聖ローマ帝国に対して叛旗を翻した。
 1140年、マイセン公は混乱に乗じて神聖ローマ帝国からの独立を宣言。貴族の中には眉をひそめるものもいたが、マイセンの民衆はかつての略奪の記憶を忘れておらず、喝采をもって宣言に応じた。
 これに対して、依然として帝国に忠誠を誓っていた北方の大国ブランデンブルク公国をはじめ、帝国内の諸侯がマイセン公国に相次いで宣戦。マイセン公は自らの計算違いに愕然とした。
 緒戦はマイセンの西、プラウエンの地において、ブランデンブルク公国軍との間で行われた。
 マイセン公は治世に長けている一方、軍事には疎かった。しかし、弟ベドリッヒ将軍の率いる公国軍は野戦で圧勝。直後にブランデンブルク公から和平の使者が訪れ、ブランデンブルク公国は早々に戦争から離脱した。

----

 プラウエンの街を包囲するマイセン公国軍に対し、ドイツ諸侯連合軍が襲い掛かった。兵の数はほぼ同等。しかし、ここでも弟ベドリッヒ将軍の知略により、連合軍を退けることに成功する。この戦いの後、和平を求める諸侯が相次いだ。
 続いて、今度は上ロレイン公国が野戦を挑んできた。先のフランス戦役ではフランス側につき、帝国を苦しめた強敵である。
 しかも、兵の数はこちらの倍であった。この戦いの中マイセン公が重傷を負い、公国軍は散り散りになって敗走を余儀なくされた。

 上ロレイン公国軍は、そのままマイセン城の包囲を開始した。数度にわたる和平交渉はすべて拒絶され、公国の危機を悟ったマイセン公は最終決断を下した。軍勢を指揮する上ロレイン公の暗殺である。
 夜陰に紛れて敵陣に忍び込んだ刺客によって暗殺は成功した。しかし、マイセン公が暗殺を命じた事実は公に露呈してしまう。
 その直後、次女ウルスラが暗殺未遂に遭う事件が発生。その犯人は明らかでなかったが、おそらく敵の差し金であろうと思われた。
 さらに和平交渉は続けられたが、復讐心に燃える上ロレイン公の後継者は聞く耳を持たず、交渉は平行線を辿った。

----

 戦争は2年目に突入した。先のマイセン公が巨費を投じて建設した城砦は堅固で、包囲戦を長引かせていた。
 包囲戦の最中、マイセン公の妻が高齢により死亡。享年47歳。翌年、教区司教を務める弟アガテが天に召された。享年51歳。
 相次ぐ血縁者の他界に公爵が嘆き悲しむ中、奇跡が起こった。同盟国ミラノ公国が、上ロレイン公国の首都を陥落させたのである。しかし、その直後にミラノ公国と上ロレイン公国は講和。マイセンを包囲する敵軍の士気は落ちなかった。

 戦争は4年目に入り、精力的に軍務をこなしてきたマイセン公にも疲労が見え始めた。もはや城の陥落は目前かと思われたとき、突如神聖ローマ皇帝より和平の使者が訪れた。
 マイセン公が即座に講和に応じると、戦争の口実がなくなった上ロレイン公国軍は城の包囲を解き、しぶしぶながら撤退して行った。
 かくして、公国の危機は去り、マイセン公国は名実共に神聖ローマ帝国からの独立を果たしたのである。
 さらにマイセン公を驚かせる事件が起こった。神聖ローマ皇帝フレデリックが次女ウルスラを娶りたいと申し込んできたのである。当然、公爵は二つ返事でこの縁談を承諾した。
 巷では、公国が救われたのは、皇帝が姫に一目惚れしたからだとの噂がまことしやかに囁かれた。

----

← [[ヴァイマール年代記]]


トップ   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS