イルカの主

模範公レオンの治世(1066〜)

ここ、ドルフィン地方は古くからブルクンド地方の中枢の1つであった。
かつてはブルクンド王国が栄えた土地であり、中フランク王国の重要拠点でもあった。

しかし、今では東フランク王国から名を改めた神聖ローマ帝国の一地方伯であり、
その上、神聖ローマ帝国の属国であるプロヴァンス公国のそのまた属国であった。

これを嘆いていたレオンはブルグンド王国の復活の野望を胸に秘め、1066年ドルフィン伯に即位をした。


即位して1年たった1067年に待望の長男ルイが生まれた。
その1年後の1068年には長女ジャスティーヌが、
更に1070年には次男フィリップ、1071年には三男レンドル、四男トマスと
次々に子供が出来たのである。

生まれつき長男ルイは軍事に、次男フィリップは財務と智謀に秀でていた。

しかし、三男レンドルは生まれた時から体が病弱であったため1072年の春に夭折してしまう。


その頃、神聖ローマ帝国内部では皇帝であるハインリヒ2世を筆頭に
メクレンブルグ領を討伐せよ!という声が高まっていき、
遂に1075年、神聖ローマ帝国とその同盟国であったポーランド王国が
メクレンブルグ・ポンメルンの両領主に宣戦布告をした。

この結果、リューベックとロストクが神聖ローマ帝国領に、
メクレンブルグとウェーレがポーランド王国領となった。

これを、後の人々は第1次北ドイツ戦争といった


しかし3年後の1078年、北ドイツでは新たな混乱が生じていた。
ブラバンド・フリーセン・ゲルレの3州が下ロレーヌの支配から抜け
独立を果たしたのである。

その上、ポーランド領内のメクレンブルグ伯と神聖ローマ帝国領内のロストク伯が同じように
主君の支配から独立を果たしてしまう。

これに大いに怒った皇帝ハインリヒ2世はブラバンドとゲルレ攻略し、
ポーランド側がメクレンブルグとロストクを攻略した。
この結果ブラバンド・ゲルレは神聖ローマ帝国領に、メクレンブルグ・ロストクはポーランド領となった。
一方、攻略されなかったフリーセンは見事に独立を守った。

これを第2次北ドイツ戦争という。

そのころ、ドルフィン伯レオンの下に五男ジョフリーが生まれ、
道路や図書館などの施設が立ち並ぶドルフィンは、ブルグンド有数の豊かな土地となっていた。



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