*五賢帝
東西が分裂する前のローマ帝国の最盛期に在位(96-180)した五人の優れた皇帝。
---マルクス・コケイウス・ネルウァ(在位 A.D96年-98年)
---トラヤヌス(在位 98年-117年)
---プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(在位 117年-138年)
---アントニウス・ピウス(在位 117年-138年)
---マルクス・アウレリウス・アントニヌス(138年-161年)
---コンモドゥス(在位 180年 - 192年)
の5人。

**ネルウァ 在位 96年 - 98年
五賢帝の最初の人物である。
35年11月8日、イタリア、エトルリア(都市国家集団)の都市ナルニアに生まれた。
71年と90年の二度にわたって執政官(ローマ帝国の首相)をつとめた。
若い頃は第5代ローマ皇帝ネロの男色相手の一人であり、洒落者としても知られていた。
皇帝ドミティアヌスがステファヌス(皇帝の姪の執事)によって96年に暗殺されると、高齢で病気であったにもかかわらず新皇帝に擁立され、元老院から承認された。
子供がいなかったことや、ローマ軍から積極的な支持がなかったことなどから、当時ゲルマニア(現在のドイツ一帯)総督で軍の人気が高かった、トラヤヌスを養子にして後継者に指名した。
98年1月25日に没する。

**トラヤヌス 在位 98年-117年
A.D53年にヒスパニア(現在のスペイン)のイタリカの生まれる。当初は対ゲルマン人の最前線である属州ゲルマニアの知事を務めていた。 97年、皇帝ネルウァの養子となり、翌98年に皇帝に即位した。
常に対外進出を目論んでおり、初代皇帝アウグストゥス以来の防衛的・反戦的政策に反して外征に積極的であった。
ダキア(現在のルーマニア)を征服し、さらに東はメソポタミア、西はイベリア半島やブリテン島の南部、南はエジプト、北は現在のルーマニアやハンガリーまで征服し、古今東西で最大のローマ帝国を築く。ダキア遠征の始終はトラヤヌス記念柱と称される大理石の柱にレリーフとして刻まれ、現在に伝わる。
内政においては、ローマ市内のフォルム・ロマヌム(現フォロ・ロマーノ)の付近に新たな広場(現フォロ・トライアノ)を造営し、またレンガ立ての公設の市場(現メルカート・トライアノ)を設けて市民を入居させた。
元老院から内政と外征に渡るその功を称えて至高の皇帝 (Optimus Princeps) の称号を贈られた。
私生活においては女色よりも男色を好み、つねに逞しい若者の一群を随行させていたことでも知られている。
よって子供を作らぬまま117年に没し、皇帝位は側近であった親族のハドリアーヌスが継承した。

**ハドリアヌス (在位 117年-138年)
76年1月24日に生まれる。治世中に帝国全域(つまりエジプト・イラクあたりからブリデン島南部!)を巡行したことで知られる。
またライン川(スイス〜仏〜独〜北海)、ブリタニア(現在のイギリス)の防衛線の再構築を行い、異民族の侵入からの防衛システムを確固としたものにした。現在でも、イギリスでハドリアヌス防壁の遺跡を見ることができる。
彼も男色を好み、ビテュニアの美しい若者アンティノウスを鐘愛したことで名高く、エジプト訪問中に、この美青年がナイル川で事故死を遂げた後は、彼を神格化して神殿や新しい都市アンティノオポリスを建設し、帝国中にアンティノウス像を立てさせたことが知られている。
また大規模な別荘ウィラ・ハドリアヌス(ヴィラ・アドリアーナ)をイタリアに造営し、ギリシア、ローマ芸術のもつ高い倫理性を規範とした新古典主義に大きな影響を与えた。
ハドリアヌスは132年に起きたユダヤ人の反乱を鎮圧し、その後、ユダヤ戦争(A.D66年〜70年)の時に破壊されそのまま放置されていたエルサレム市を、自らの氏族名にちなんだローマ植民市、アエリア・カピトリーナとして再建した。しかしユダヤ人(=ユダヤ教徒)はそこでの崇拝を禁止された。 現代のフランス作家ユルスナル著[[「ハドリアヌス帝の回想」:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4560047111/249-0047124-2915518]]でも有名。
138年7月10日に没する。

(以下調査中)


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