ナコニド家(リューベック)/主の1375年。王ジョフリーはすべての戦場でノルドの軍勢を打ち破った
主の1422年。王アイユーブは弟の結婚を認め、これを祝福した。
花嫁が輿に載ってベイルートに入城すると、町の住民はうちそろって歓呼の声を挙げた。
(『イェルサレム王国記』)
バールベック領は貧しいところでござります。
税収わずかに月4万ディーナール、拠出する兵数1300内外。
トリポリ、ベイルート、ダマスクスといった名だたる都城のあいだに横たわる
岩と砂とひからびた灌木の大地。
それがバールベックなのでござります。
しかも瘴癘の地ゆえ、病いを得た者はすぐにむなしくなります。
20年にわたって女伯としてバールベック領を治め
ナコニド家の子供たちを育ててこられたエアドギト・オコナーさまでござりますが、
主の1381年春、疫病で肺をいためなさると
もうその年のうちに亡くなられてしもうたのでござりました。
女手ひとつで独立伯領を守り切ったエアドギト 紋章は現在のオコナー家領スモーランドのもの
後を襲ったのは長子アーノルドさまでござります。
祖父君と名前を同じくするゆえ、
ここではアーノルド2世と呼ぶことにいたしましょう。
第2代バールベック伯アーノルド2世 叛逆者サイモン・ナコニドの長子
ときに、時代は風雲急を告げておりました。
ペルシアを飲み込み、シリアを押さえ、
アナトリアにてビザンツを打ち破ったガズニ朝トゥルクメン帝国。
これを討たんと「帝国の柔らかい下腹」ヨルダン河谷へ進撃するフランス王。
両者はシリアで激突し、
その火の粉は当地の十字軍諸領にも容赦なくふりかかってまいります。
英君スレイマン イェルサレム王 紅海沿岸エイラートに都し、ヨルダン河谷へ勢力を拡大しつつあった 上図:1384年、イェルサレム王国 ガズニと同色に見えるが、フランス王旗が立っているのはオルレアン大司教領
熟慮に熟慮を重ねた末、
アーノルド2世はイェルサレム王スレイマンに助けを求めます。
ド=コートネイ朝イェルサレム王国は砂塵の中から身を起こし、
パレスティナの十字軍諸領をしだいに統合しつつありました。
誇り高きイスマット スレイマン王の末娘 母親は1214年「リューベックの血浴」事件で敵対したバシール・アリ末裔
アーノルド2世の願いは聞き届けられました。
こうして主の1384年、バールベック伯はイェルサレム王臣となり
ナコニド家はイスマット王女を嫁御として迎えることになったのでござります。
アーノルド2世とイスマットさまは
それはそれは仲睦まじい御夫婦でござりました。
子宝にも恵まれ、貧しいバールベック領にも喜びが満ちあふれます。
されど外の世界ではトゥルクメン人が猛威を振るっておりました。
1396年にはフランス王領サンジャンダークル港がついに陥落、
シリアの十字軍諸領はガズニ朝の中の飛び地として残されるという事態に。
要衝サンジャンダークル港、ついに陥落 フランスは同時にサフェド、イルビド、ケラクといったヨルダン河谷を失った
1398年11月30日、オリエント シリアの十字軍諸領はガズニ朝の茶色の海の中に取り残された
主の1408年、こういった情勢のなかで即位なさったのが
アーノルド2世のお子ウィリアム伯でござります。
ファティマさまのお父上のことでござりますよ。
ウィリアム・ナコニド 第3代バールベック伯 ナコニド家は近隣諸家と緊密な婚戚関係を結んでいた / アデル妃の実家ド=クールソーユ・ダミエッタ公家はイングランド王に叛逆し独立 イェルサレム王家の友好家門のひとつと言える
ウィリアム伯は母君イスマットさまの影響もござりまして、
アラブふうの暮らしの中でお育ちになりました。
お子であるファティマさまにその名を与え、
地元のアラブ貴族に預けて育てさせたことは
決して田舎の十字軍領主の戯れなどではござりませぬ。
欧亜の文化が混淆する我が王国にあって、
イングランドをいつか帰るべき故郷と考えていたナコニド家に
今大きな変化が訪れつつあるのではないか……。
差し出がましいことを申せば、そのようにわたくしは感じております。
1422年、イェルサレム王国 武威と名声によって勢力を拡大するイェルサレム王国 たくみな外交でガズニ朝との不戦状態を維持し続けている
ウィリアム伯はバールベック伯領ひいては王国全体の強化に努められました。
独立した弱小土侯国を狙って攻めるよう王に進言なさり、
王国がエジプトやアラビア方面に拡張するきっかけを作られたのでござります。
御自分でもアンマン土侯国を攻めとって東方への備えとされました。
こうして今に至るまでの20年間、
我が王国はガズニ朝の圧迫に抗して踏みとどまり、
全キリスト教世界の防波堤として諸王の賞賛を得ているのでござります。
廷臣エリザベス・ド=ブルゴーニュ この物語の語り手
さて。
わたくしは故郷アルカをガズニ朝に攻め滅ぼされたのち、
主の御加護を得てウィリアム伯の禄を受ける幸運に恵まれました。
こうしてファティマさまの御養育係を務められましたことは
そのうちでも最もすばらしき幸せでござります。
ファティマ・ナコニド バールベック伯ウィリアム長女 田舎の貧乏貴族の姫君といったところか
マフディ・ド=コートネイ イェルサレム王弟 ファティマ・ナコニド婚約者 ついこのあいだまで王国軍総司令を務めていた若武者。兄の信任も厚い
しかしファティマさまは明日にもベイルートの王家へ嫁がれる身……。
こうして親しくお話をできますのも今宵限りのことでござります。
お忘れなさいますな。
ファティマさまはナコニド家の娘。
スラブの戦士やノルドの王女、
バルト海を支配した男たち、
コンスタンティノープルを攻めとった男たち、
イングランド王にあと一歩だった男たち、
そうして彼らを支えた強靭な女たちの末裔なのでござりますよ。
ベイルートの都は豊かなところ。
家格が釣り合わぬだの、持参金が少ないだのと抜かすやからもござりましょう。
さんざん難儀な目に遭わされるやも知れませぬ。
しかし相手にせぬことでござります。
なんといっても、ファティマさまはナコニド家の娘なのでござりますから。
こうして主の1421年12月20日、
ファティマ・ナコニドは王都ベイルートへ嫁いでいった'''
おそらく幸せに暮らしたことだろう
終わり
1066年から1422年までの約360年間、
あまたの家門が「我こそ欧州の覇者たらん」としてしのぎを削りあった。
ここではみごと上位入賞を果たした諸家について、講評を交えながら見てみたい。
もとポーランド王。長らく盆地から抜け出せなかったが、
13c初めの「五王戦争」でハンガリーを併呑して飛躍。
一時キプチャク汗国にカルパチア山脈-オーデル河ラインまで押し込まれるも、
見事はね返してウクライナの大平原を丸呑みした。納得の一位である。
GC開始時の王位を維持できているのはこことプシェミスル家だけ。
もとハリコフ公家。
ルーシでは諸公が250年くらい戦国時代をやっていたが、モンゴルにまとめて一掃される。
これに対して立ち上がり、まさかの大反攻を成功させたのは
プリピャチ沼沢地のほとりにひっそり隠れ住んでいたハリコフ・ルリコヴィチ公家。
称号を取ったり取られたりしていつしかロシアをほぼ手中に収める「後キエフ公国」に。
残念ながら王国の形成には至らず。
もとノルマンディーのド田舎のAI生成貴族。
コーンウォール公臣、ノーフォーク公臣を足がかりにして勢力を蓄え、
ナコニド家およびド=モンフォール家から王国をかっぱぐ。
そして創始から数十年でここまで伸びました北海帝国。
潰れろ潰れろと思っているのに全然潰れない。
13c半ば、セルジュク帝国を大崩壊させたイル汗国。
その右上の貧しい砂漠に地味に住んでいたのがガズニ家。
15c初め、気がついたら中東を制覇していた。
コンスタンティノープル危うし。あの町を僕に下さい。
ここまで四強。
プレイヤーが覚えてる限りでは4回目かそこらのイェルサレム王国。
おそらく13c半ば、どっかの国の地味な十字軍で人知れず建国されたと思われる。
以来200年間、目立たないように目立たないように成長。
終盤ぎりぎりでなんと5位入賞の快挙を成し遂げた。
ド=コートネイはもとはイギリスかフランスのAI生成貴族だったようだ。
つかんだ領土は絶対に手放さない聖庁。
気付けば各地のおいしいとこばかり20領以上を保持する大国に。
これが信仰の力か!
360年間モロッコ遠征だけを何度も何度も何度も繰り返し、
また12c初めにはすでにアラブ化してヒゲを生やしてみたりして、
正直何がやりたかったのかよく解らない連中。
プシェミスル家、執念のモロッコ
前半200年はアンダルシアの植民地化にいそしむという先見の明を発揮。
後半はペルシアに進出、大麻畑とおぼしき広大な直轄領を保持するも、
ガズニ朝にペルシアも本土もまるごと奪われ、アンダルシア共和国化。
だがこのヴェネツィアなら大航海時代も怖くない
11cから12cにかけて北欧最強領主の名を欲しいままにするも、
13c初めの三分家創設後、坂道を転げ落ちるように衰退。
14c中盤には復活しイングランド王位に肉薄するも
プレイヤーを唖然とさせるようなゲーム進行により、
シリア内陸ド田舎の1プロビ極貧国家に蹴落とされる。
15c初、最後の最後でアンマン土侯国を占領し、1プロビのまま終ることだけは避けられた。
末期ビザンツとヴェネツィア……ではなく、教皇領要部とエーゲ海諸島公国。
しかしエーゲは惚れ惚れするような海洋飛び地国家ですね。
本当はこういうプレイをするつもりだった。
で、君らはウラルの麓で何をしているんだコムノス皇帝家……。
ほかにヴォルガ上流やエーゲ海に数プロヴィンス保有。