ナコニド家(リューベック)/主の1215年、この年、王ベルトルドがアイスランドから来た

アンリの新しい家族

主の1228年。この年、王ベルトルドはスケグネスの浜辺で大敗を喫した。
そしてイングランドの多くの地方をドイツ人がおさえた。
(『デーン年代記』)

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シャルルの息子アンリ

「かあさま……かあさま……」

はしけの上でアンリは夢にうなされてござりました。
大きな声をあげて跳ね起きましたアンリを、兄のベルトランが抱えます。

「しっかりしろアンリ! もう母様はいないんだ!」

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リガ伯妃アリスはリューベックへ向かう船旅の途中亡くなった

「父様がエストニア公なんかにならなければ良かったのに……。
そうすれば母様も船に乗らずにすんだし、海へ落ちることもなかったのに……」

まだ小さな弟や妹たちがアンリを不思議そうな顔で見てござります。
アンリは袖で涙を拭いて、そろそろ行く先に姿を現しはじめたリューベックの港町を
まるで母の敵のように見据えるのでござりました。


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ゴーティエの息子シャルル
母方の事情により7歳でリガ独立伯領を継いだ
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前エストニア公妃ピロシュカ

主の1217年、父君ゴーティエの死によって
リガ独立伯シャルルは第7代エストニア及びノーフォーク公となられました。

家族を引き連れてリューベックへ越されたシャルル公でござりますが、
バルト海の船旅で奥方アリスを亡くしておしまいになりました。
そこでシャルル公は父君の遺妃ピロシュカをめとり、
その子らを我が子と同じように遇することを誓われたのでござります。

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青枠はシャルルの連れ子、ナコニド家の子供たち
オレンジ枠はピロシュカの連れ子、ヤーク家の子供たち

シャルル公はナコニド家の子供たちにおっしゃいました。

「おまえたちはヤーク家の者をナコニドと同じように扱わなければならぬ。
新しい母様を敬いなさい。そしておまえたちの新しい兄弟姉妹を大切になさい。
そのうち父のことでいろいろ言われることもあるだろう。
心を強く持ちなさい。父はいつもおまえたちを愛している」

しかし、アンリはふさぎこんだままでござりました。

父の破門

「あんたの父様なんか、嘘つきの、疑り屋の、坊主崩れの田舎者じゃない!」

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ヤーク家の長女ソフィア

両家の子供たちはおおむね仲良くやっておりましたが、
アンリとソフィアだけは別でござりました。
ソフィアはたたみかけます。

「それに私知ってんのよ。あんたたちの母様を殺したのがあんたの父様だってこと!」

アンリは真っ赤になりました。

「ソフィア、嘘つきはおまえだ!」

「もしかして知らなかったの?
みんなに『妻殺しのシャルル』って噂されてんの! 迷惑なんだけど!」

そういった噂があるのはまことでござります。

シャルル公は封臣たちの信用を急速に失いつつありました。
重代の忠臣ですらも、主君の悪評が我が身に伝染ることを恐れてリューベックに近寄らず、
それがためいっそう公領の手綱はゆるんでゆくのでござります。

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封臣たちの心は驚くべき早さでシャルル公から離れていった
黄:エストニア直轄領 宮廷リューベック
茶:エストニア封臣(黒枠:臣下 赤枠:親族 灰色枠:司教)



ある日、ソールズベリの使者がリューベックのナコニド屋敷へまいりました。

「聖庁に2800万マルクを納めよ。さすれば妻殺しの赦免を考えてもよい」

居合わせたアンリが驚いて父君を見やりますと、
父君はあからさまに苛立たしげな様子をお見せになりました。

「断る」

ただでさえ家臣に好かれづらいご気性のシャルル公でござります。
そこへさらに身内殺しの烙印を押されなさった訳で……。

封臣たちはほうっておけば半年で7割、1年で9割が離反してしまうでしょう。
離れてゆこうとする彼らをつなぎとめるために多額の金子が必要なのでござります。

加えて、苦い経験がシャルル公のお心を頑なにしてござりました。
これまで二度も赦免を嘆願して数千万マルクをソールズベリに納めたものの、
結局赦免は下されなんだのでござります。
今回も同じようなことになるのでは?

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「断る、断る、断る! エストニアは教皇の雌牛ではござらぬ」
「破門されまするぞ」
「勝手にしろ!」

シャルル公とて少し余裕をもってお考えになれば、
聖庁の要求に応じることが最善であるとすぐにお気づきなさったことでしょう。
されど封臣たちの扱いに忙殺されておったシャルル公には
そのわずかな余裕がのうござりました……。

アンリは父君にすがります。

「父様、父様は破門されるの?
ほんとに父様は母様を殺したの?
ぼくたちどうなるの? ねえ父様、なんとか言ってよ!」

シャルル公は何も言わずに広間を立ち去られたそうでござります。

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主の1217年、 『妻殺しのシャルル』ついに教皇によって破門さる

そして戦争が始まった

事ここに及び、封臣たちは態度を明らかにいたしました。

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黄:エストニア直轄領 宮廷リューベック
茶:エストニア封臣(黒枠:臣下 灰色枠:司教)
赤:叛逆した封臣

まずイングランドでサセックス、オックスフォードのメーメル2家、
ノルドではスレースヴィのガッレ家、
カレリアではケクスホルムのウルヴェ・ナコニドが一斉に叛逆。

「あれほどの金子をむさぼっておきながら……。
この、見境なしの、貪欲な、涎まみれの地獄の犬どもめ!」

シャルル公は怒り狂われました。
主力を率いてノーフォークにおられたシャルル公は
真っ先にイングランドのメーメル2家を轢き潰すことをお命じになりました。
こやつらはメーメル司教アランの親族にて、
言うことは聞かぬ、兵は出さぬ、そもそも目障りこの上ない連中でござります。

「いまぞ討たん、ナコニド家! 
ノーフォーク公位をド=モンフォールが手に取り戻せ!」

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ほどなくしてペンティエーヴル、オーのド=モンフォール2家が叛逆に加わります。

オーのルノー・ド=モンフォールは時をおかずフランス王に臣従。
それがためフランス王が、そしてフランスの同盟相手ドイツ王が、
とどめとばかりにポーランド王までがシャルル公に宣戦してまいりました!

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これに対し、シャルル公の主君であるベルトルド王は直ちに兵を動員。
同盟を結んでおったハンガリー王グルムとともに
フランス、ドイツ、ポーランドに宣戦を布告!

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ノルウェー=デンマーク王ベルトルド
クヌートリング朝第10代 禿を気にしてか髭を生やしたようだ

「余はエストニアに即位の際の借りがある。
またどんな状況にあっても一族郎党を守る、それが王たるものの務めぞ」

王とはかくも偉大、かくも慈しみ深き守り手であらねばならぬのでござります。
この地上の王国においてはなかなかに難しき事ではござりますが……。

とまれ、シャルル公は王の徳の前にひれ伏し、
クヌートリング家への忠誠を改めて誓うたと伝えられてござります。

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1217年、『五王戦争』始まる
全キリスト教世界が一丸となってムスリムと戦うという、
半世紀に渡って維持された『諸王の十字軍』体制はここに崩壊した

出征

「父様、母様、それでは行ってまいります」

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いまだ『リューベックの血浴』から立ち直っていないナコニド家は
あたら若い息子たちを戦地に送り出さざるを得なかった

主の1221年、成人したベルトラン、アンリ、小シャルルの三人は
公軍を率いて出征することになりました。

前年すでにブリストル、ハンプシャーのメーメル2家、リガ司教が叛逆。
金目当てでシャルル公の元にとどまったカルマル司教スラヴェックも、
公領の財政難から下賜金が滞るようになった3月頃、あっさりと叛逆いたしました。

シャルル公には一人の封臣もおらぬようになってしもうたのでござります。

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黄:エストニア直轄領 宮廷リューベック
赤:戦争状態にあるかつての封臣

リューベックは絶え間なく脅かされ、イングランドの半ばは敵の手に落ちました。
ベルトルド王とは別に共闘してくれたメクレンブルク・ナコニド家も
ルドルフに全土を占領され、ボヘミアの4州を擁する小領へと転落しております。

同じ1221年、ドイツとフランスが占領地の配分をめぐって仲違いをおこし、
ルドルフがフランス直轄地を占領、王冠を奪取。
およそ600年ぶりでござりましょうか、シャルルマーニュの御代を思わせる
強大な王国がヨーロッパのど真ん中に誕生いたしました。

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「夢は皇帝」ルドルフ・ビルング
左:1220年、ビルング朝ドイツ王国
右:1221年、フランスを併呑したドイツ王国

さらに東方平原ではポーランド王がハンガリーを圧倒。
聖イシュトヴァーンの王冠を手にしたポーランド王プレムコは
バルト海から黒海へ至る領域をわがものとしたのでござりました。

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「凡人でもここまでやれる」プレムコ・ピャスト
左:1218年、ピャスト朝ポーランド王国
右:1226年、黒海北岸にまで広がるポーランド=ハンガリー王国

こんな連中を相手にしたいくさでござります。
けっして戦況は芳しくござりませぬ。
アンリは死を覚悟しておりました。

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末っ子ルイ

「父様と母様のあいだには世継ぎのルイが生まれている。
それに対して俺たち3人は前妻の子、いわば邪魔者というわけだ。
いいだろう、せいぜい華々しく戦って散ってやる……!」

「アンリ兄さま」

騎乗したアンリの外套を引く者がござりました。
見れば義妹のソフィアでござります。
今年になってからずいぶんと背丈が伸びた義妹をアンリはいぶかしげに見やります。

「アンリ兄さま、必ず生きて帰ってくるとお誓いになって」
「それはわからぬ」
「いいから誓って!」

ソフィアはつややかな栗色髪をひとふさ切り取ると、アンリの手の平に押し付けました。

「母さまやドブロネガみたいな綺麗な金髪じゃないけど……
大事にしないと怒るから!」

泥沼の中であがく

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1226年、3月21日の戦況
赤は味方、青は敵軍
王軍はスケグネスに上陸してイングランドを奪還しようと試みたが、
信じられないような大軍に粉砕され、北海へ逃げのびた

主の1226年、戦況は悪化するばかりでござります。
こちらの軍勢がパリやアンデルナッハといった敵の要衝を包囲しておりますあいだに、
イングランドの全エストニア領がドイツ王軍に占領されてしもうたのでござりました。

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シャルル公はイングランドを完全に喪失した

北海から上陸したノルウェー王軍が何度も反攻をかけますが、
すぐに追い戻されてしまいます。
絶対的な兵力差、王が従える諸候の数の差が明暗を分けました。

こちらの手持ちの軍勢は、もはやわずかに1800名。
それもライン河畔、敵軍のまっただなかで孤立してござります。
アンリの兄弟ベルトラン、小シャルルの二人も激戦の中で戦死を遂げました。

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新教皇 糞ったれのスラヴェック
兼コンスタンティノープル司教(旧エストニア領カルマル司教)
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ゴトランド島、シェラン島、リューベックを一時占領するなどさんざん暴れ回った
情けない事に、そのロマニア仕込みの精強な軍隊にエストニア軍は決して勝てなかった

さらにこの年、シャルル公に叛逆した糞ったれのスラヴェックが教皇に選出されました。
これにより聖座はソールズベリからコンスタンティノープルへと遷座。
代々のナコニドが血を流して切り取ってきたロマニアとノルドの6領が
あっさり手の届かぬところへ召し上げられてしもうたのでござりました。

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主の1226年、聖ペトロの使徒座がコンスタンティノープルに据えられた!

知らせを受け取ったシャルル公は、
怒りにまかせ手にした杯をこなごなに砕き割られたとのことでござります。



明けて1228年1月。
ついにドイツ王軍はリューベック攻略にとりかかりました。
バルト海へ逃げる小舟の群れ、街道を埋める避難民の列。
じきに河港も城門も封鎖され、
リューベックは二重三重の攻囲に締め上げられることでしょう。

シャルル公は自らの天幕へアンリを呼び、次のように仰せになりました。

「このいくさ、負ける。どうあがいても負ける。
だが、ましな負け方というものがある」

「父上、そのような弱気では兵がついてまいりませぬ!」

「黙れ! もはやそのような事を論ずる時ではない。
アンリ、おまえは兵を引きゴトランド島に籠れ。
ほかにオーゼル島、シェラン島、ゴトランド大司教位を与える。
当地リューベックをも与えるべきであったが、時すでに遅い。

エストニアがどうなってもおまえは生き延びて3島を守れ。
私が死んだら、おまえがナコニド家を継ぐのだ」

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領土の散逸を恐れたシャルル公は世俗の称号ではなく聖職をアンリに与え、
彼をゴトランド大司教として独立させた。
これによりアンリはエストニア公領の敗戦の影響をまぬがれつつ、
ナコニド家継承順一位となる。

「しかしルイは? 父上とピロシュカ母様の実の御子ではございませぬか」

「ルイはまだ小さい。大司教区を任せられるのはおまえしかいない。
先のことを考えて内々に嫁を取ったほうがよい。
誰か意中の娘はおるのか?」

アンリの脳裏をよぎったのは栗色の髪のふさでござりました。

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苦境の中でソフィアは芯の強い娘に育っていた

「……ソフィアを。母様の連れ子ソフィア・ヤークを娶りとうございます」

「よかろう。義理の兄妹とはいえ、
おまえたちの父母はそれぞれ重なっておらぬのが幸いであったな。
では、ソフィアを連れて今日にでもゴトランドへ発て!
ここはひどい戦場になる」

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ゴトランド大司教アンリ

かくてゴトランド大司教区が成立し、シャルル公が実効支配する領土は
今まさに包囲されつつあるリューベックのみとなったのでござりました。

「後世の史家どもは
『シャルルの治世は数々の悪政と失地に彩られた恥ずべきものであった』
と書くことだろう。
300年来の一族の地リューベックを無血開城したとなったらなおさらだ。

主よ、あわれみ深い御方、必要なことをする勇気を私にお与えください……」

シャルル公はそうつぶやいて十字を切ると、
ドイツ王の軍陣へ降伏の使者を送るよう供の者にお命じになりました。

さらばリューベック

ついにその時がやってまいりました。
主の1228年3月23日、ドイツ系住民の歓呼の声を浴びながら
ドイツ王軍13800は華々しくリューベックへと入城したのでござります。

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イェンスの裔、コルヌアイユ伯イェトヴァルド
驚愕の顔合わせであった

教区司教の立ち会いのもと市参事会からリューベック市門の鍵を受け取ったのは
ドイツ側の将、イェトヴァルド・ナコニド。

覚えておいででござりましょうか?
第三代ハルデクヌート公によってはるかヴォルガの地へと追放された長兄イェンスを。
その子孫はフランス王にかくまわれ、ブルターニュの一伯として家系を保つことができました。
今ドイツ王臣としてリューベックに立ち戻ってきたイェトヴァルドは
イェンス・ナコニドの曾孫にあたります。

イェトヴァルドはシャルル公にルドルフ王の講和条件を伝えました。

全土を占領されておるシャルル公に選択の余地はござりませぬ。
こうしてナコニド家は公から道化に至るまで荷をまとめ、
300年にわたって住まいとしたリューベックを去ったのでござります。

「さらば! さらばリューベック!」

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1228年、イングランドのノーフォーク公領だけがシャルルに残された

霧にけぶる西方の島、ブリタニア。
先公ゴーティエの能天気な野望とはまったく無関係に、
もはやナコニド家はかの地で生きてゆくほかのうなったのでござりました。

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「初代」ノーフォーク公シャルル ブディヴォイ伯から数えて10代目
心労のためかずいぶん老けた

「これから先はこれが家紋か……」

シャルル公はノーフォーク公の紋章をじっと眺めました。

忠誠の証しとして、エーリク王のバルト戦役に従軍した褒章として、
また王女イングリッドの血統を表すものとして、
クヌートリング王家から賜った 「柏葉つき三獅子章」を
ナコニド家は永久に失ってしもうたのでござります。

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さらば、エストニアの三獅子たち

それから二年後。
シャルル公は王軍として出征中に大けがをなさり、戦地にて亡くなられます。
そうして公の望みどおり大司教アンリがナコニド家を継がれたわけでござりますが、
それはまた別の話。

灯し火も暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。



主の1246年?

ナコニド家(リューベック)


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