[[ナコニド家(リューベック)]]/[[主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた(前編)>主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた(前編)]]

'''王ヴィルマンタスが激しい勢いで敵を打ち倒したので、'''
'''トルコ人たちは怖れをなしてマルマラ海の向こう岸へと逃げ戻った。'''
(『デーン年代記』)

**王の到来 [#v2fb4520]

野に一面の天幕が張られてござります。

主の1200年、ギリシアはアドリアノープル城外。
フランク、ルーシ、ノルドの各地から十字軍士が集まる一大野営地でござります。
きらびやかな騎士、見たこともござりませぬような遠国の旗、
諸国の商人、言語ごとに兵団をなしております傭兵どもが
日がな一日ごった返して、まるで大きな町といった様子でござります。

りょうりょうと喇叭が鳴りわたります。
また、いずこかの王が野営地に到着したのでござります。
長幡をはためかせ、土煙をあげ、
ターバンを巻いた異様な騎士たちの一群が野営地の大道を駆け抜けました。

#ref(radoslav.jpg,nolink)
 アラビアのラドスラフ、ノーフォーク公
 タブクの砂漠修道院で育つ

>「ノルドの支配者、ヴィルマンタス王のお成りである!
道をあけよ!」

鞍上から呼ばわるのはまだ声変わりもしておらぬ少年でござります。
異教徒ふうの絹の外衣で隠してはおりますが、
生まれついてのものらしい「ねじれ足」がはっきりと見てとれます。

されど少年をあざけり笑う者は、みなすぐに蒼冷めることになりました。
彼がエストニア公オトカルの子であることを聞かされましたゆえ。

#ref(otokar.jpg,nolink)
 忠犬オトカル、第四代エストニア公
 教皇の意に沿わぬ者をさかんに破門し、ソールズベリの犬と忌み嫌われた

1194年、教皇アンリはオトカル公のノルド十字軍成功をいたくお喜びになり、
公を御自身の新たな後見人にお選びになりました。

>「親父が教皇の犬なら、あいつは仔犬か」
「ああ、道理できゃんきゃんよく吠える」

ラドスラフ公、そんな陰口を叩かれていようとは夢にもお思いになりませぬ。
なにしろこれが初陣でござります。
軍装を整え、胸を張り、目を輝かせて
ヴィルマンタス王の天幕にてお側付きを務めておられました。

#ref(virmantas_knytling.jpg,nolink)
 ブドリスの孫ヴィルマンタス・クヌートリング
 リトアニア朝第三代 ノルウェーおよびデンマーク王

王は先遣の諸卿をねぎらったあと、
エストニア公に概況を報告するようお命じになりました。

>「承知いたしました。こちらを」

エストニア公オトカルは卓上に羊皮紙の地図を広げます。

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 ドナウ軍 激戦を通じて、ドイツとノルドのあいだに初めてキリスト者としての連帯感が生まれた

>「ノルウェー人・デーン人・ヴェンド人兵団で編成されたドナウ軍は、
ヴォルガスト、ブランデンブルクを皮切りに
ドナウ沿いのセルジュク臣領を掃討しつつ南下いたしました。&br;
時折南部へ撤退中のセルジュク軍と会敵いたしましたが手応えが薄く、
戦線が次第にドイツからハンガリーへ、ハンガリーからバルカンへ移っておることが感じられます。
ドナウ軍の現在の主力は占領地で招集されたドイツ人兵団です」

#ref(dneprarmy.jpg,nolink)
 ドニエプル軍 いにしえの『ヴァリャーギからギリシアへの道』を通った
 (NikopolはNikomediaの誤り)

>「フィンランド、バルト地域のフィン人・バルト人兵団で編成されたドニエプル軍は
共闘態勢にあるキエフ大公の協力を得てドニエプル河を南航、
ケルソンから黒海を渡り、ビザンツ領へ上陸いたしました。&br;
航路を利用することで会敵を少なくできるのがドニエプル軍の強みです。
ドナウ軍とあわせてロマニア一帯を占領いたしましたが、
コンスタンティノープル手前で敵の強固な抵抗に遭遇しております」

#ref(nordarmy.jpg,nolink)
 ノルド軍 デーンロー平定後、ドナウ軍に編入された

>「ノルド軍はフランク系小領主たちの混成軍です。
さんざん勝手にノルドやイングランドのセルジュク臣領をぶんどったあげく占領地に居座り、
まったく統制が取れません。&br;
なんとか言う事を聞く連中はドナウ軍の後詰めに向かわせましたが、信用できません。
連中に先陣を任せることのなきよう、ご用心願います」

#ref(casimirakershus.jpg,nolink)
 アケシュフス公カシミール

ロマニア周辺の地図をじっと眺めておられたアケシュフス公は、
地図上のある地点を指先でこつこつと叩くと次のように仰せになりました。

#ref(kallipolis.jpg,nolink)
 ダーダネルス海峡を扼する要衝カリポリスは激戦を経てノルウェーの手に渡った
 トルコ人はここを『ガリポリ』と呼ぶ

>「わしの考えではこのカリポリスが要だ。
アナトリアやウトラメールへ向かうキリスト教国の軍勢は
みな一度はここで足止めされておる。
エスターゴトランド公、試みにセルジュク王となり駒を動かしてみてはくれまいか。&br;
……ふむ、やはり南から来るセルジュク勢はみなここを通ってルーシやハンガリーへゆく。
カリポリスはヨーロッパの門というわけだ」

>「確かに。カリポリスに大兵力を置いて重しとなせば、
セルジュクはもはや本土からヨーロッパに兵を送り込むことかなわぬ!」

エスターゴトランド公が感嘆したようにおっしゃいました。

#ref(outremer1200.jpg,nolink)
 1200年、ウトラメール
 「外地」「海外領」を意味するウトラメールという言葉は
 この時代、シリア、パレスティナ、エジプトなどの十字軍諸領を指していた

「それだけではない。
諸王の軍勢がより安全にウトラメールへ向かうことができる。
セルジュクと正面切って戦っているのがフランス王とドイツ王であることを忘れてはならぬ」
とエストニア公。

父親たちの話を聞いておったラドスラフ公は次第にたまらぬ心持ちになってこられました。

#ref(constantinople.jpg,nolink)
 『驚異の都』 コンスタンティノープル

>「しかしコンスタンティノープルは?
かの大都を目の前にして立ち止まるなど、とても辛抱なりませぬ!」

若いラドスラフ公は思わず声を上げてしまわれました。
しん、と天幕の中が静まりかえります。

王はちらりと少年をご覧になると、
何事もなかったかのような口調で

>「諸君、教皇猊下はコンスタンティノープルを御所望だ。
私はあの街を奪うために軍勢を率いてきたのであって、
都を横目に異教徒のための門番役をする気はさらさらない。&br;
明朝一番、我々は兵13000をもってコンスタンティノープルへ抜け駆けする。
ドイツ王やキエフ大公に感づかれるな!」

と仰せになったのでござりました。


**二つの死 [#m74b18eb]

>「してやられた!」

#ref(engelbrechtbillung.jpg,nolink)
 ダマスクス公、ドイツ王エンゲルブレヒト

#ref(sviatoslav_rurikovich.jpg,nolink)
 事実上のルーシ王、キエフ大公スビャトスラフ

#ref(thomas_debougogne.jpg,nolink)
 イェルサレム解放者、フランス王トマス

諸王は口をそろえて悔しがりました。
後からのこのこやってきたノルウェー王に
かのコンスタンティノープルの包囲を許してしもうたのでござります。

教皇の手前、みなそれぞれに包囲に兵を出しはいたしましたが、
悔しげな心持ちがありありとにじみ出ておりました。

>「やめろ! やめてくれ!
ノルドの野蛮人のものになるくらいなら、
まだムスリムの手にあったほうがましだ!」

#ref(michael.jpg,nolink)
 ビザンツ皇帝ミカエル

なかでも慨嘆したのはビザンツ皇帝でござりました。
セルジュクから奪い取った領土とはいえ、
ロマニアの主要部にのさばって動こうとせぬノルド人たちは
ビザンツ皇帝にとっては悪夢にも等しい存在だったのでござりました。

しかしさすがは5重城壁を誇る旧帝都コンスタンティノープル。
1年囲み、2年囲み、それでもまだ陥ちませぬ。
もちろん寄せ手もござります。
先に述べましたカリポリスとあわせ、
マルマラ海を挟んで壮絶な攻防戦が繰り広げられておりました。

#ref(1201_10_23.jpg,nolink)
 1201年、10月23日の戦況
 エストニア公、ノルウェー王、ドイツ王、キエフ大公、ビザンツ皇帝etc.etc...
 この地域を抜かれると本国が直撃されるので、各領主必死である

ルーシの兵、クロアチアの兵、聖堂騎士、改宗したアラブ人、アイルランド傭兵、
もはや、どの兵団がどこに属するものやら……。
フェロー諸島からバーレーンまで、
既知の全世界から集められた小領主どもがひしめきあい、殺しあいます。

>「抜刀! 我に続けっ」

まだ若いラドスラフ公も剣をふるって戦います。
物語のような華々しいいさおしを夢見ておった少年も、
いくさの現実に触れることで精強な若武者へ変じようとしておりました。

豪雨のように襲い来る矢弾、尽きぬように思われる東方の蛮兵たち、
一体全体、このいくさはいつになったら終るのでござりましょうか。
それでも伝え聞くところによれば、イスパニアでは五分五分の戦い、
ウトラメールではキリスト教徒が微妙に競り勝っておるようでござります。

されど善き事ばかりではござりませぬ。
攻囲中に弩弓の矢を太腿に受け、
ラドスラフ公の父君オトカル公が臥せってしまわれたのでござります。

>「なんのこれしき……」

身を射抜くような綺麗な傷であれば良うござりましたが、
あいにく骨が砕かれ四散しておりました。
戦地ゆえに満足な治療を受けられぬばかりか、
傷口から土の毒が回ったと見えて、オトカル公は日に日に痩せ細ってゆかれます。

>「ノーフォーク公をお呼びせよ」

オトカル公は蒼白な顔で仰せになりました。
ゆくゆくはイングランドからフィンランドにまたがる大領を統べる我が子に、
領主の心得など垂れようとお思いになったのでござりましょう。

されどオトカル公は御子息にお会いになることはできませなんだ。
その同じ日、天幕の寝台の中でこときれておるラドスラフ公を
従者が見つけましたのでござります。
アラブ風の短剣がそのお背中に突き立てられてござりました。
&br;

主の1203年1月、コンスタンティノープルが陥落してから間もなく
エストニアおよびノーフォーク公、教皇後見人オトカル・ナコニドは身まかりました。
39歳でござりました。
オトカルの領地と称号は彼とアデレード・ド=モンフォールの息子ユリウシュが継承いたしました。

#ref(event_death.jpg,nolink)

誰がラドスラフを殺したのか?
何のために?

さまざまな憶測が飛び交いましたが、
もうナコニドの家中の者はこういったことには疲れ果てておりました。

>「二度とこういったことを起こさぬが肝心。
犯人など誰でもよい」

ユリウシュの祖母で摂政を務めるドゥース・ド=モンフォールは
こわばった顔でそう申したとの事でござります。

翌年、教皇アンリがコンスタンティノープル回復を宣言し、
十字軍に一区切りがつきました。
ドゥースはエストニア部隊の指揮権をヴィルマンタス王に献じ、
実質的に十字軍から手を引くことに決めました。

>「いくさ、いくさの歳月であった。
少しここらで休ませてもらうとしようか」

#ref(douce3.jpg,nolink)

しかしドゥースの晩年は穏やかならざるものでござりました。

血塗れた手を洗う仕草に始まって、しだいに狂気が彼女をむしばむようになりました。
最後にはトームペア城の塔のひとつに押し込められたまま、
誰からも忘れ去られてしもうたと伝えられてござります。

&br;
灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。

&br;
[[主の1211年、王ロルフは諸候の歓呼を受けて玉座に昇った]]
[[主の1215年、この年、王ベルトルドがアイスランドから来た]]

[[ナコニド家(リューベック)]]



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