*ルイ6世の時代 1172-  

偉大なる父王の死去により、フランス国王及びアラゴン国王の座は嫡男ルイが後を襲うこととなった。ルイ6世の誕生である。彼は3回の結婚を繰り返し。ルイを筆頭として2男6女の子供をもっていた。

かれには父が持っていた卓越した統治能力は無かった。父が治めていた直轄の地を全て治める能力に欠けていたのである。まずかれはすでに成人している息子ルイに対し、自らのバレンシア公爵の地位とカステリオンなどの半島の3州の統治を任せることにした。またイベリア半島でも収入に乏しい地域を選んで一族のものに与え直轄の領土を減らし統治の効率化を図った。

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彼には父には無かった能力を持っていた。冷静かつ大胆な外交術と冷徹な策謀である。今回は策謀が彼の勢力拡大に役に立つこととなる。従兄弟のニコラスが統治していたブルゴーニュ王国であったが、反ニコラス派の家臣の内通を得て食事に毒を盛ることに成功し従兄弟を亡き者にすることに成功した。一転このニュースがあたかも青天の霹靂のように振舞った彼の手にはブルゴーニュの王冠及びイタリア国王の王冠が握られていたのである。さらにドイツ国王の継承権まで握ることと成った。

そしてこの年7女ジーンが生まれる。娘の顔をみたルイ6世は聖戦の続行を命令した。今回の目的は、エルサレム近郊の諸州を平らげ、巡礼者の安全を確保するためである。歴史的にも古いティルス、ベイルート等の沿岸部を不kメタ4州にフランス王国の版図を広げる結果となった。これらの諸州を元ブルゴーニュ宮廷の家臣に分け与えた。これは新しく家臣になった者たちに自らの寛容さを示すと共に、宮廷から邪魔者を排除するという2重の目的をもった策であった。

1176年4男アントワンが誕生。また弟のアーチムバードが成人した。
翌年バレンシアに高利貸しが誕生した。王としては認めたくは無かったが既成事実を突きつけられては拒否は出来なかった。1178年には首都パリにも高利貸しが現れることとなる。8女レイモンドがこの年誕生した。

1180年妻イデが死亡。おなかにはルイの子供が宿っていた。ルイは悲しみに暮れるひまも無く更なる政略結婚を繰り広げる。プロバンス公爵の姉であるセベリーナを後添えとしてもらうこととした。彼女との間に同年4男エチアンが誕生した。

1181年セベリーナが、事故により死亡。度重なる妻の死にルイは自らの不運を嘆いた。先代までの国王は妻も神の加護か長生きをしていたが自らの妻は次々と不運にみまわれていく。更なる後添えとしてビザンツ皇帝の末娘マリアを娶ることにした。

1183年5男リチャードが誕生。この年ルイは半島での勢力拡大に打って出ることと成る。コルドバを治めているイスラム勢力にたいし戦争を仕掛けた。

兵力でも圧倒的に勝っているフランス国王はイベリア半島中部を制圧。半島で最も裕福な部分を王国の手に治めることに成功した。またこの戦争の結果、アフリカ大陸にもその領土を得ることとなる。

1190年ルイはカール大帝から分かれた3つの王位の残り、ドイツ王=神聖ローマ帝国皇帝号を自らの手に握ることを決意する。王国に軍隊召集の号令がかけられた。

2年にわたる戦争はドイツ領で戦われ激戦が各地で繰り広げられた。数でも質でも勝るフランス王国軍は烈火のごとく皇帝の直轄地を荒らしまわりついにドイツ皇帝は降伏した。ついにカール大帝以来の3つの王冠の統合がなされたのである。ルイはローマに上り正式にローマ皇帝の位につくことと成った。




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