***1176年のポーランド周辺(画像は1175年) [#e957a7ad]
#ref(s-po1175.jpg,nolink)

***1176年のピアスト家・マゾフシェ公領 [#rb3db7b8]
#ref(s-四代目公爵様.jpg,nolink)
マゾフシェ公ヤノスが公位を継承したとき、公領は巨大かつ強力な存在になっていた。
あとは先代ラスロ公の遺志を継ぎ、王位を奪うだけであった。
ただ、ヤノスには子がなく、妻も30を超えているため後継者に不安が残る。
王家ではミエスコ王の命の灯が消えようとしていた。
彼にもまた子はなく、上位後継者は皆母系で繋がる別家の人々であり、ピアスト王家断絶は確実。
マゾフシェ公の分家筋としてはメクレンブルク・ピアスト家、グニエズノ・ピアスト家、
サンドミェシ・ピアスト家(いずれも従兄弟)。メクレンブルク・ピアスト家とは敵対関係。
直轄領は10州、請求権はポーランド王位、デンマーク王位等多数。

***ヤノスの治世~マゾフシェ公として [#h8bf3c4e]
1178年ミエスコ王は崩御した。王位継承者は60を超えた老人であった。この老人王も1180年に崩御し、
王位は5歳のエンドレ・ボドツェタが継承した。
(彼はヴラディスラヴ・ヘルマンの時代からの封臣、チェルスク伯の遠縁にあたる)
王領は当時12州に及んでいたが、当然全ての統治は不可能であるため10州を分離させ、
直轄領はポーランド国内2州に低下した。
これをヤノスは待っていたのであった。
すでに忠臣という仮面をかなぐり捨てていたヤノスは即座に宣戦布告、勃発から3か月足らずで王領の制圧を完了した。
もはやエンドレ王に退位以外の道はなかった。
1181年7月、マゾフシェ公ヤノスはポーランド王ヤノス1世として即位し、ピアスト朝は断絶から3年で復興した。
#ref(s-ポーランド王ヤノス1世.jpg,nolink)
退位したエンドレは5公爵の称号は保持し、メクレンブルク公を名乗った。

***ヤノスの治世~ポーランド王として [#uc4901df]
王位に就いたヤノスはその豊富な財政力と軍事力を用いて紛争への介入に乗り出し始めた。
まず、デンマーク王と戦争中のホルシュタイン伯に忠誠を迫りこれを傘下に収めたうえ、
ホルシュタイン伯領を占領せんとするデンマーク王を叩いてその介入を阻止した。
さらに、一度復興の兆しのあった神聖ローマの再崩壊に介入し、北ドイツ2領を臣従させ、
オーランド(バルト海の島)に逃れていたクマン族を再びブルガール方面へ追放し、
リトアニア王位のための下準備としてその各地域への称号請求を行った。
1189年にはメクレンブルク・ピアスト家が独立宣言に対し、即座に兵を送って鎮圧、
併合したメクレンブルクは旧主エンドレに譲った。

同年、国内・周辺地域に問題の消えたヤノスは王国の威信をかけた大遠征に乗り出すことを決意した。
その数年前、チュートン騎士団が遠方より攻め込んだセルジューク朝にマリエンブルクを奪われ滅亡していた。
セルジューク朝はイベリアをほぼ完全に制圧したイスラム諸侯らの大半を支配下に収め、
イスラム最大の勢力としてキリスト教国を圧迫していた。
近年ではスコットランド、アイルランドの両王国がイベリアで奮戦しているも徐々に押されているとの情報もあった。
1190年、セルジューク朝及びマリエンブルクを支配するアレクサンドリア首長国に宣戦布告し、
まずはマリエンブルクを制圧することで大遠征の第一歩を刻もうとした。

だが、その遠大な夢は第一歩目で躓くことになる。
同年春、12000の兵をもって4000余のマリエンブルク兵を攻撃した。
ポーランド軍圧勝は目前というところでヤノスが重傷を負ってしまい、もはや遠征どころではなくなってしまった。
#ref(s-陛下負傷.jpg,nolink)

その後、同地の制圧は完了したが、負傷が元になって病に罹り1191年死去。享年48。

***後継者問題 [#k58c2781]
継承法に基づき即位したのは弟アンドラスで滞りなく王位の継承がなされたが、問題はその子供であった。
三男は有能な男だが、長男はお世辞にも有能とは言えぬ上、ストレス症を患っていた。
だが、王国法に基づき長男サラモンにはハンブルク伯及びホルシュタイン公の称号が与えられ後継者筆頭となった。
そして北イタリアまで勢力圏を広げたベーメン王国がその様子を窺っていた。
#ref(s-po1191.jpg,nolink)
[[ポーランド、大国への道]]


トップ   新規 一覧 検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS