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 ヴェルマンドワ伯ユーデス2世
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 ヴァロア公ユーデス2世
家系図
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***難破船 [#fefb906e]
父の喪が明けた12月、ユーデスの元に次のような知らせが入る。
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  1.「臆病」を得る
 ニア2.200ゴールドを得るが、20%の確率で肺炎になり、20%の確率で「勇敢」を得る。
財宝を得るため、ユーデスは自ら潜水して金貨が入った袋を引き上げた。
ところが彼はその夜高熱を発し、重い肺炎であると診断された。朦朧とする意識の中でユーデスは激しく後悔したが、後の祭りである。
結局、長い養生の末に彼の肺炎が治癒したのは二年半後であった。この一件の後、人々は彼を「水難公」と呼ぶようになった。
ユーデスが肺炎を患っている間にフランス王国は内乱によって滅亡しており、フランス北部はイングランド王が、南部はナヴァラ王が支配するようになっていた。
ユーデスが肺炎を患っている間にフランス王国は内乱によって滅亡しており、
フランス北部はイングランド王が、南部はナヴァラ王が支配するようになっていた。
また、ドイツ王国でも大規模な内乱が続き、ドイツ王位がクロアチア王に、ブルグント王位もその封臣のボスニア公に渡るなど、混迷を極めていた。
もはやシャルルマーニュの継承者たちはそれにふさわしい権威や実力を有しておらず、ユーデスは再びシャルルマーニュの血統に帝位を取り戻すことを決意した。

***パリ遷都 [#z83ad413]
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手始めにユーデスはイングランド王国より独立していたメーヌ伯を攻撃、併合する。
また、ドイツの内乱で独立していたルクセンブルク公から力ずくでルクセンブルク公位を奪取した。
領地が拡大したため、ユーデスはヴェクサンに新たに司教領を創設した。
さらに首都をフランスの中心でもあるパリに移し、ヴェルマンドワの支配を長子トマスに任せた。
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 トマスは幼いころから神童の評判高く、ユーデスも後継者として大きな期待をかけていた。

***臣従 [#uc8a5028]
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フランスを二分しているイングランドとナヴァラは、フランスの中心パリが中立勢力に属していることを快く思っていなかった。
ユーデスもそのことは承知しており、そのどちらかに臣従することを考えたこともあった。
だがその場合、パリを支配したことで新たな主君がフランス国王の位を宣言して帝位への障害となることを恐れ、ユーデスはそれを見送ってきた。
それでもやはり中立を守るだけでは情勢は変化しないと考えたユーデスは1093年3月、イタリア王(かつてのドイツ王)オットー4世に臣従を誓う。
長きにわたる内乱でイタリア王国は相当に弱体化しており、封臣もウルビーノ伯のみという有様であった。
権力基盤が脆弱なオットーを追い込めばイタリア王位を簒奪できるかもしれないとユーデスは考えたのである。
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 イタリア王オットー4世。父王ハインリヒ4世が反乱諸侯軍との戦いで戦死したため、幼い身でありながら即位。
 即位後も内乱は収まるどころか加速し、クロアチアの介入を招いてドイツ、ブルグント王位を奪われる。
これを受けたナヴァラ王は翌年、イタリア王国の南フランスへの拡大を防ぐためにその地の正当な支配権を強く主張し、オクシタニア王の位を宣言した。

***民衆十字軍 [#x5c6a7d4]
第一回十字軍はフランス国王フィリップが出兵を渋ったことで実際には遠征が行われていなかったうえに、
ドイツの内乱など他の戦乱がヨーロッパを巻き込んだことで有名無実のものと化していた。
その上当事者のほとんどがすでに死亡していたにもかかわらず、十字軍が取り消されることはなかった。
そして十字軍が宣言されてから20年が経過した1095年、ピエールなる隠者が農民たちを扇動し、何もせぬ諸侯に代わって聖地へ向かおうと提言する。
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熱狂した人々はピエールに随って聖地への遠征に出たが、その多くはムスリムの軍隊に殺され、あるいは捕虜となり、故郷に戻ることはなかった。

***死 [#zf7cde8a]
1097年12月、水難公ユーデスは老衰のためこの世を去った。享年47歳であった。
ヴァロア公の位と皇帝への夢は長子であるヴェルマンドワ伯トマスに託された。



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