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*ミカエル10世が語る [#k197ec1a]

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 皇太子ミカエル、トラキア専制公時代

父が帰天したとき、わたしは8歳だった。
帝国はまっぷたつに裂け、愚劣な内戦を始めようとしていた。

わたしはそんなことも知らないで、ブラケルナエ宮殿の緑の園を
トレビゾンドやブルガリアの王子王女たちと泥だらけになって走り回っていた。

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母が復権した。

皇太后アンナ・パレオロギナ・ド=サヴォワは
テマ制復活をもくろみ、地方に割拠する軍事貴族を一掃することを決意。
特にカンタクゼノス家の権力を注意深く取り除こうとした。

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一方、父の親友ヨアネス・カンタクゼノスは
共同皇帝ヨアネス5世としての権利を主張した。
諸侯の多くがカンタクゼノスを支持した。

そうして帝国がふたつに裂けた。
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母は躊躇しなかった。

エピロスのイタリア人傭兵からなる母の軍勢は恐るべき速度で山を越えた。
本拠地テサロニケを急襲されたカンタクゼノスは
兵をそろえる間もなく敗れた。

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こうして皇太后アンナの足元に帝国の全地がひれ伏したのだ。

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 強大なアンジュー帝国の主「せむしのシャルル」

母は剛胆であるばかりか、雄大な企図をその胸に秘めていた。

さきごろ教皇後見人となったシャルル3世アンジューと語らって、
東西の教会合同を実現させようとしていたのである。
シャルルの娘ジョヴァンナを将来わたしの嫁に迎えることがその条件であった。

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かのシャルル・ダンジュー創始になるナポリ・アンジュー家は
その血脈と武威によってナポリ、ハンガリー、クロアティア、イェルサレムの
4王冠を得ることに成功していた。

真相は今となっては解らない。
だが、母アンナが構想していなかったとはわたしには言いきれないのだ。
東西合同教会の後見のもと、これら4王冠とローマ帝冠をあわせ戴くパレオロゴス帝国を。

この構想が実現していれば、たぶんわたしの息子は
東方典礼によって秘蹟を受ける最初の『神聖ローマ皇帝』になっただろう。
そうしてパクス・パレオロギカの名のもとに全キリスト教世界の半分を支配しただろう。

だがそれはここに関係がない。
そうしたことは実際には起きなかったのだから。

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1352年、コンスタンティノープル総主教アンティオキテスが母を罠にかけた。

母は叛徒の烙印を押され、カンタクゼノス家の残党とともに帝国から放逐された。
アンティオキテスは教会合同を決して受け入れることができなかったのだ。
彼はわたしの摂政を1356年まで務めた。

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1356年、わたしは成人し、ブルガリア王の孫娘エレナを妃に迎えた。
これはすでに総主教によって決められていた結婚だった。

両親を見て育ったわたしは彼らの過ちを繰り返したくなかった。
わたしは真実エレナを愛した。
エレナもわたしを愛してくれた。

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わたしとエレナの息子はブルガリア王を兼ねることになるだろう。
エレナの二人の兄が幼少のころ不慮の死を遂げているので。

わたしは総主教アンティオキテスを始めとする廷臣たちに助けられながら、
それほど困難を覚えることもなくローマ皇帝の日々の務めをこなしていった。


**トゥグリル朝との戦い [#reba74aa]
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 フレグ傍系7代目『イスファハーンの鷹』トゥグリル
 自身が傀儡に据えられていたジャライル朝を乗っ取り、フレグ・ウルスの再興を宣言
 黒枠は1368年時点でトゥグリルと戦っていた勢力

1368年、トゥグリル・ハーン率いるモンゴル軍が
100年の時を経てふたたびアナトリアへ現れた。
彼らフレグの末裔たちは父祖のネストリウス派異端信仰を捨て、
主の御旨からより遠いムハンマドの教えを奉じていた。

いくつもの土侯国が見る間に溶けてゆく。
いったん刃を交えようものなら、
すぐさまイナゴのごとき大軍勢に国ごとひきつぶされてしまうのだ。

進軍速度を見るに、1370年の始めには戦線が帝国国境へ到達するものと思われた。

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わたしはカイロのスルタンサディクと会談を持った。
数百年の恩讐を越えて、スルタンサディクは帝国の参戦を乞うた。
連日の激しいいくさに彼は憔悴の色を濃くしていた。

わたしは彼の求めに応じた。

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3つの案があった。
a. 東部アナトリアへ長途侵攻する(トゥグリル朝へ宣戦)
b. 西部アナトリアに地積を確保する(トルコ人土侯を征服)
c. 海峡防衛線での待ち伏せ(帝都およびカリポリスへの後退)

わたしは最初の選択肢を選んだ。
軍を編成し、トゥグリル・ハーンと戦うために海峡を渡った。
この選択は正しかった。
そのことは後になってわかるだろう。

トルコ人土侯たちは帝国軍の通過を許したばかりか、さまざまの援助を与えた。
わたしたちが彼らの敵と戦うためにゆくのを知っていたからである。

わたしは兵を10000名の北部軍、7000名の中央軍、同規模の南部軍の3つに分けた。
主にマケドニアとエピロス、アナトリアで募った傭兵だ。
トラキアは首都総予備として手をつけないでおいた。
ふくれあがる戦費はヴェネツィア人からの借金でしのいだ。

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1369年夏までにわたしはガラティヤ、アダナ、エデッサで大きな勝利を収めた。
東部アナトリアの確保は後続のマムルーク朝軍にまかせ、
わたしはトゥグリル朝軍を殲滅すべく主力を率いて追撃した。

年末、帝国=マムルーク朝連合軍の主攻線はティグリス上流域へ到達。
バグラトゥニ将軍のマケドニア軽騎兵連隊4500は
ザグロス山脈を越えて敵の副都タブリーズを脅かした。

そこから地獄が始まった。

トゥグリル・ハーンはペルシア各地で兵を募り、
3000人規模のテュルク人兵団が月にひとつの割合で戦線に到着した。
決して強くはない小部族の混成軍だが、
たくみに離合集散してこちらの主力にぶつけてくるところに怖さがある。

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1370年3月、マムルーク朝のシリア戦線は崩壊した。

スルタンサディクはトゥグリル・ハーンに和を乞うて南へ消えた。
マムルーク朝軍の空白を埋めるために戦線を縮小せざるを得ない。
トラキア総予備を増援に使ってエデッサ突出部を維持すべきかどうか、
わたしは真剣に悩んだ。

4月、わたしは帝国軍をアダナ-カイサレイア線まで後退させた。
流れがはっきり変わっていた。
このままアナトリアを保持できるかどうかすら、賭けだった。

わたしはトラキア総予備を招集した。
これにより戦費はさらに膨張し、
ヴェネツィア商人への負債総額は4500万ノミスマに達した。

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7月、アダナに集結した帝国軍主力14500はいまだ意気軒昂であった。
わたしは東部アナトリアにおいてアダナを拠点とした機動防御を行うとともに、
北部シリアに逆侵攻し地積を稼いだ。

しかしクルディスタンの土侯を制圧し終えたトゥグリル朝軍25000以上が
ティグリス上流域に展開し始めていた。

そして戦費による負債は無視できないものとなっていた。
ついに負債が5000万の大台に達したとき、
ヴェネツィア人たちは口をそろえてこれ以上の融資を断り始めるだろう。

わたしはあるトルコ人土侯を通じてトゥグリル朝側の講和条件を探った。
ハーンはいくつかの州の領土請求権放棄を求めていた。
初期の攻勢によって短期間帝国が領有した、東部アナトリアの一部についての権利である。
それは現状維持の上での停戦申し出を意味した。

トゥグリル・ハーンはアナトリア戦線では帝国と、
カフカス戦線で同族ジュチの末裔と同時に戦っていた。
彼はいささか店を拡げすぎたようだ。

ともあれ、初期の果敢な攻勢がなければ
こういった形で停戦をはかることは難しかっただろう。

ホサナ、主の御名をこそ讃えよ!
わたしは自分の選択が正しかったことを今になって知り、快哉を叫んだ。

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1370年7月、こうして帝国はトゥグリル朝と休戦した。
トルコ人の諸領をくるみこむ形で東部旧領を回復できたことはまことに喜ばしい。
しかしこの停戦のもっとも甘美な果実は『平和』なのであった。

わたしとトゥグリル・ハーンがそれぞれ玉座にある限り、
アナトリアは数十年の長きにわたってモンゴル人の劫略から守られるだろう。

わたしはすでに自らの治世における最大の難関を乗り切った気でいた。


**いくさの後 [#y5bca6ee]
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たった2年の戦役で帝国は荒れ果てた。
船着場や製粉工場、陶器窯などさまざまな施設が担保としてヴェネツィア人の手に渡り、
パレオロゴス家の収入は7割減というありさまだった。
わたしは5200万ノミスマという巨額の負債を減らすことだけを考えた。

あれは、そうするしかなかったのだ。

わたしは脅しめいた言葉で総主教を説き伏せ、10年の年限で教会献金を停止した。
この献金を流用した月々110万ノミスマが借金返済に当てられた。
帝国は負債を5年で完済し、残り5年で施設や工場を
強欲なヴェネツィア人から買い戻すことができるだろう。

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 マムルーク朝にはアレッポ、アンティオキアなど東方諸州を、
 セルビアにはエピロスを、オスマンにはパフラゴニアを奪われた

1372年から1375年にかけてマムルーク朝、アラゴン、セルビアに国境を侵された。

なすすべもなく平伏して和を乞わざるを得なかったのは、
この時期の我が治世を特徴づける不快な挿話である。

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また臣下のアンティオキア公ダヴィド・アンティオキテスが
トゥグリル朝に目をつけられ、帝国はアナトリア中央の2州をみすみす失った。
モンゴル人との和平を完全なものにするには
国境を皇帝直轄州で固めておかねばならなかったのだ。
わたしはこの事件のあと帝国国境を整理した。

だが勝利もあった。
イングランド王軍とともに戦ってオスマン君侯国を東遷せしめたのと、
[[アルモガバルス傭兵団:http://en.wikipedia.org/wiki/Almogavars]]からアテネを奪還したのがそれである。

1377年、わたしは成人した息子たちをそれぞれ専制公に任じた。
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長男イサキオスにはニコポリスおよびアテネを与え、エピロス専制公とした。
彼は帝国およびブルガリア王国の第一後継者である。

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次男テオドロスはテサロニケ専制公に任じた。

二人の任命式は宮廷を覆う極貧のなかで行われた。
ブラケルナエ宮殿にはもはやいかなる金銀の杯も見当たらず、
大官たちの美服に縫いつけた宝石もみな売り払われて、
人々はみな色ガラスの切り子で身を飾らねばならなかったのである。

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1378年、マケドニアの修道士たちが争乱を起こした。
わたしは気に留めなかった。
教義上のあやまちを犯した覚えなど何もなかったからだ。

しかし修道士たちの叛乱は海峡を越え、アジアへ広がった。
9年の長きにわたる『アナトリア大叛乱』の始まりである。
平均して月1回、多いときには週1回の蜂起がどこかで起きた。
誇張はしていない。

覚悟すべきだったのだ。
主の家のために使われるべき教会献金を、
よりによってラテン商人どもの財布へ払い込むからには。

キリスト教皇帝にあるまじき醜態!
修道士たちは憤慨をあらわにした。
だが、ほかにどうしようがあったというのか。

まるで疫病のように叛乱は飛び火した。
すでに叛乱のおさまった州が二度、三度、四度までも騒乱に陥った。
略奪された州の収入は激減し、さらに完済日は遠のく。
覚悟していなければいけなかったのだ。

細かい事は覚えていない。
血と炎にいろどられた暗い年月であった。

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1388年、ようやく大叛乱が終結した。

負債の元となったトゥグリル朝はカフカスを越えてルーシの地へ侵攻し、
当地を支配していたジュチの末裔たちに取って代わってしまった。
いまや彼らはルーシ諸侯を圧迫しながらさかんに西進している。

トゥグリル、偉大な征服者よ。
ローマ皇帝の敬意を汝に送る。

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わたしは年老いた。
わたしが死ねばトゥグリル朝との休戦は終る。

本来であればモンゴル人との再戦に耐えられる国づくりをするはずだったのが、
いま目の前に広がるのは長い内乱に疲弊した国土だけだ。
復興のやりかたを誤った。

その責はわたしが負わねばなるまい。

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1391年12月、ブルガリア国王ミハイル・シシュマンが死に、
我が第一継承者、エピロス専制公イサキオスが同王位を継承した。
パレオロゴス朝ブルガリアの創始である。

わたしの死後、帝国はついに数百年来の仇敵ブルガールを身中に取り込むことになる。
ふたたびあの大河ドナウが国境となり、
今後は北からも迫り来るであろうモンゴル人の猛攻を
猛きブルガールのキリスト教戦士たちが防いでくれるよう主に祈ろう。

山々を越えて蛮族のもとへ赴いた、いにしえの宣教者たちに栄光あれ!

ローマは滅びぬ。
新たな血を得て、こうして何度でも甦るのだ。(終)

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