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*テオドロス3世が語る [#kd3962cc]

アトス山巡礼は初めてかね?
ともあれ、我が庵へようこそ。

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 簒奪者テオドロス ミカエル10世第4皇子

わたしの俗名はテオドロス・パレオロゴス。
治世のあいだは3世を名乗ったが、
おそらく『簒奪者テオドロス』のほうが通りがいい。
『兄殺し』『甥殺し』の名も甘んじて受けよう。
わたしはそれだけのことをした。

我が甥イサキオスは狂い、傷つき、主を呪い、それでも5年生きながらえた。
わたしは彼にとどめを刺さなかった。
それは罪を重ねる恐怖だったのか、あるいは死神の誠実さを過信していたのか。

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狂帝イサキオス4世はもはや皇帝の寝台に横たわる木偶にすぎぬ。
甥に刺客を差し向けた夏、
わたしは帝国諸侯をテサロニケに集めた。
そして甥の名において選挙法継承への変更を宣言した。

第一継承者は今まで通り皇子コンスタンティノスだが、
第二継承者として帝国の実権を握ったのはこのわたし、テオドロスだ。

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 対立皇帝コンスタンティノス・パレオロゴス
 イサキオス4世唯一の嗣子

1414年春、スラブ人どもは幼いコンスタンティノスを対立皇帝に担いで独立した。
わたしは彼らを放っておいた。
そこまで手が回らなかったのだ。
ニケーア公カンタクゼノス、ニコメディア伯シシュマン、
モレアスのアセン・ブルガール王家、エデッサ大司教が次々に挙兵した。
エピロス専制公である皇弟レオは帝位を僭称、レオン7世を名乗った。

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 理想に燃えるボゴミル派などの急進セクトが伸張
 帝国と軋轢を起こす

悪い事は続くものだ。
わたしはスミルナに興ったボゴミル派異端の動向に注目していたが、
連中はついに自分たち以外の全信徒を破門するという気違い沙汰を演じたあげく、
スラブ語典礼地域のオフリドに『神の国』なる異端共和国を旗揚げした。

こうして1415年には、3人の皇帝と2人のブルガリア王、1人のメシアが
帝国各地に陣取るという事態をわたしは招いてしまったのだ。

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 1415年、分裂する帝国
 黄:イサキオス4世帝国 青:コンスタンティノス11世帝国 黒:レオン7世帝国
 赤:アナスタシア・パレオロゴスのブルガリア王国 緑:アセン家のブルガリア王国
 白:オフリドの『神の国』

ところでメシアならもう1人いた。
弟のバルトロメオスだ。

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 『狂えるメシア』バルトロメオス・パレオロゴス
 ミカエル10世第8皇子

異端、破門、狂気の三重奏が織りなすバルトロメオスの凄まじいペルソナは
もはやそこにいるだけで人々を平伏させた。

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彼はリュートをたずさえて各地を放浪した。
悪魔的な速弾きを特徴とするシャイターン奏法と
獣のごとき咆哮からなるバルトロメオスの楽曲の数々は
帝国全土を熱狂の渦に巻き込んだ。

あまたの追随者が出たが、弟の域にまで達する者は誰一人いなかった。
当然だ。なにしろあいつはメシアなのだから。

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 簒奪者テオドロスのもとでパレオロゴス朝ルネサンスが花ひらく

バルトロメオスの生んだ熱狂は文芸に波及し、
おそらくマケドニア朝以来、いや統一帝国期以来最大の文芸復興が始まった。
パレオロゴス家の年代記が編纂されたのもちょうどこの時期である。

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 摂政およびテサロニケ専制公テオドロス
 選挙法継承により58歳で皇帝に即位

1418年、甥イサキオスがついに召された。
皇子コンスタンティノスの叛乱により第一継承者となっていたわたしは
テオドロス3世として即位した。

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テッサリア伯レオ
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アルタ伯アドリアノス

すでに高齢のわたしには、即位後すぐに後継者問題が突きつけられた。
息子のレオ、アドリアノスは皇帝の器ではない。
彼らに帝国を継がせることはできない。
わたしは私利私欲のために帝位を簒奪したのではない。

ほかに宮廷にはパレオロゴスの男子が6名いた。
わたしが目をとめたのは9歳のダヴィド。
誰あろう、我が弟バルトロメオスのひとり子である。

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 ダヴィド・パレオロゴス
 バルトロメオスとオズグル・コペルの子

悪疫で多くの男子を失ったパレオロゴス家にとってダヴィドは期待の星だった。
わたしはこの出来のいい甥を可愛がり、
帝国を統治するために必要な諸事について教えた。
ローマ皇帝としては異風な名前も即位の障害にはなるまい。

だが、すでに複雑怪奇というべき様態を示していたロマニア情勢が
わたしのもくろみを見事に打ち砕いたのである。

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 1419年の帝国
 オフリドの『神の国』やレオン7世帝国は短命だった
 またコペル家を始めとする武勇にすぐれたトルコ人戦士たちが
 トゥグリル朝最前線のアナトリアへ封じられた

1419年わたしはオフリドの異端共和国に対して十字軍を起こし、
この地に新たな主教を据えた。
そのときだ、対立皇帝コンスタンティノスが
セルビア王の反転攻勢にさらされていることを知ったのは。

わたしには4つの選択肢があった。
-セルビア王とともに対立皇帝コンスタンティノスを挟撃
-無視
-謀略によってコンスタンティノスをブルガリア王とし、側面から援護。
(コンスタンティノスは姉アナスタシア女王の第一継承者であった)
-直接介入

わたしは介入することに決めた。
同時にコンスタンティノスに使者を送り、臣従を迫った。
断ればどうなるか。
みなまで言う必要はなかった。

15人目の使者が承諾の返事を持ち帰った。
こうしてコンスタンティノスの帝国は消滅し、
わたしは彼の臣従礼を受けた。

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 継承順は大きく動き、大領を有するコンスタンティノスが首位に躍り出た
 ニコメディア公グレゴリイ・リューリコヴィチ、ニケーア公ダニシュメンド・コペル、
 アドリアノープル公デメトリオス・アンティオキテスが続く

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 1420年9月7日の戦線
 この時点ではまだコンスタンティノスは臣従していない

わたしは1419年から1421年にかけてセルビアを転戦し、
ゼタ、ラマの2州を我がものとした。

コンスタンティノスの領する4州とあわせ、
セルビア8州中6州を確保したわたしは
ここに正当なるセルビア王であることを宣言。

ラグーサ近郊、修道院の中庭だった。
我が足元に頭をすりつけ、和を乞うボレスラフ王。
あの眼に燃えさかる昏い炎をわたしは終生忘れまい。

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 1421年8月の帝国

こうしてわたしはセルビア王国を手に入れた。
荒れに荒れ果ててはいたが。
アナスタシア・パレオロゴスのブルガリア王国とあわせ、
パレオロゴス家がロマニアを押さえたと言っていいだろう。

わたしはコンスタンティノスと話し合った。
そうして彼に帝国を譲ることに決めた。
これで弟イサキオス、甥イサキオスの血統に帝位が戻ることになる。
狂った甥の息子は誇り高い若者に成長していた。

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 コンスタンティノープル総主教ダヴィド・パレオロゴス

一方、わたしの都合で振り回されたダヴィドに謝らなくてはならなかった。
わたしは彼を帝都総主教に任じ、コンスタンティノスを支えるよう頼んだ。
ダヴィドはわたしを安心させてくれた。

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 9年の時を経て、『狂えるメシア』が堂々の再臨
 その新曲の数々は帝国を熱狂の坩堝へ叩きこんだ

1425年、二度目のバルトロメオス旋風が帝国を覆っていたころ、
わたしは帝位を退く方法を探し始めていた。
65歳という高齢はインペラトールの任に耐えられるしろものではない。

アトス山の小さな僧坊に空きを見つけ、修道院長に話をした。
ひそかに側近の者たちに後事を託した。
コンスタンティノスを呼んで必要なあれこれを指示したあと、
身も心も軽くなってアトス山への旅に出た。

それからずっと、わたしはこの庵で贖罪と祈りの日々を過ごしている。
今のわたしは白髭の修道士グレゴリオスだ。

ところでコンスタンティノスの即位式は盛大だったそうだね。
よかったら新皇帝の様子を聞かせてくれないか。

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