[[フランケン朝の中興/Gerard1]]

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【レオポルド1世(1088~) ドイツ・イタリア・ブルグント・ボヘミア・シチリア・フランス・レオン・カステーニャ王】
【レオポルド1世(在位1088~) ドイツ・イタリア・ブルグント・ボヘミア・シチリア・フランス・レオン・カステーニャ・アラゴン王】
直轄領:Franken、Leiningen、Ulm、Wuttemberg、Venezia、Genoa、Mainz、Palermo、Bremen

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***即位 [#j1ecace1]

二代に渡り、皇帝が暗殺されるという悲運にさらされたフランケン朝であるが、
その玉座はハインリッヒ4世の四男であるレオポルドが継ぐこととなった。

彼は非常に好戦的な性格であり、戴冠式を終えるや否やすぐさま馬上の人となり、
戦地へ向かったというエピソードが語り継がれている。

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***南イタリア政策 [#w43960f9]

彼の統治の初期は、南イタリアのノルマン人対策に明け暮れることとなる。
帝国が北イタリアでの権益拡大に成功すると、南イタリア一帯に勢力を貼るオートヴィル一族との関係が問題となった。
ビザンツ帝国をも駆逐したことで自信に満ち満ちた彼らオートヴィル家との交渉など成功するはずもなく
日増しにフランケン家とオートヴィル一族の関係は悪化していった。

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【オートヴィル家当主 Roger Borosa de Hauteville】


交渉不可と悟るやいなや、レオポルド帝の決断は早かった。
皇帝直属のジェノバ軍1万5千はシチリア島へ向かい、
ヴェネチア軍と南イタリア帝国諸侯からなる主力5万の兵は、カプア・ナポリ方面を瞬く間に攻略。

しかし、皇帝には正教・カトリック入り乱れ、言語も文化も違う南イタリアを直轄とする気はなかった。
そこで、オートヴィル家当主に忠誠を迫り、南イタリアを間接的に統治することを決定した。

さらにシチリアへの遠征で、島のイスラム勢が内乱状態にあることを知ると、
ヴェネチア軍をもって一気にシチリア島を制圧。
以後、シチリア・ナポリを統べる王「シチリア王」を名乗ることとなる。
なお、シチリア王代官所はパレルモにおかれ、この一帯だけは王の直轄地とされた。

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***フランク王国の再興 [#w43960f9]

南イタリアでの強引な政策のせいか、レオポルドはその後数年間、帝国国内での反乱鎮圧に振り回されることとなる。
しかしこの間にも、交通の要所であるブレーメンを直轄地にすることに成功するなどレオポルドの敏腕ぶりが発揮された。

帝国国内の騒乱もだいぶ治まったころ、宮殿に一つの知らせがもたらされた。
フランス王国内のフランダース公が些細なことから反意を抱き謀反、
さらにフランス王が鎮圧に戸惑っている間に、
南フランス一帯を領有するアキテーヌ公(他にもいくつか爵位を有する大諸侯)が独立。
フランス王国の支配域は瞬く間に1/2程度となった。

レオポルドはこれを聞くと、先帝時代に囁かれたドイツ・フランス同君連合の夢を実現するのは今しかないと考えた。
先帝は、フランス姫を妻に迎えていたため平和裏にこれを実現する可能性があったが、
自らにはそのような可能性はなく、また武力でフランス王位を奪い取る方が自分にあっていると考えたのである。

フランス王位を主張する(威信2125必要)にも十分なだけの国力があり、フランス王直轄領はわずか二領。
フランス軍の大半は反乱鎮圧で北方と南方に分散しており、戦争開始と共に防衛線は容易く突破できた。
そして数ヶ月後、イルドフランスの宮殿でフランス王フィリップ・カペーは、譲位を表明し、
自らはオルレアン伯としてレオポルドの臣下となることを誓った。
ここに843年以降、3つに分裂した帝国は再統一されたのである。

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【ちっちゃいフランスを征服】

さらに、帝国再統一から二年後、独立していたアキテーヌ公が死去し、ドイツ諸侯サヴォア公がその地位を継承。
南フランス地帯も帝国の影響下に置かれることとなった。

しかし、この継承により領土面積では皇帝直轄地を遥かに凌ぐ大諸侯領が帝国に出現。
にわかに皇帝と諸侯との拮抗が崩れ、帝国は新たな時代を迎えるのである。


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【帝国最有力諸侯サヴォア公】
【帝国最大の諸侯サヴォア公】

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***いざスペインへ! [#kef10775]
***レコンキスタ前夜 [#t4eed93e]

さて、旧フランス王国域にも帝国制度が導入され
フランドルやブルターニュも帝国軍の侵攻の前に膝を屈し、
フランスは沿岸のイングランド領を除き、完全に帝国制度に組み込まれることとなった。
しかし順風満帆ともいえる中、レオポルドの胸中には一抹の不安が生じていた。

それはイスパニア(スペイン)のレオン=カステーニャ王国がイスラム勢力に押し続けられ、
いまや南フランスの帝国領にまでイスラム勢力が迫りつつある現状についてである。
そこでレオポルドは、最早レオン=カステーニャ王は頼むに値せず、王たる資格を有さないと主張し、
ハイリンリッヒ父帝の頃より帝国の傀儡と化している教皇庁に命じ、レオン=カステーニャ王を破門。
電光石火のごとく自らが、レオン=カステーニャ王を継承を宣言。教皇より(形式的ではあるが)戴冠された。
さらに数ヶ月後には同様の手口で、2州を領有するまでに落ちぶれていたアラゴン王位をも簒奪した。

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【まるで王位のバーゲンセール】

そしてこの簒奪を正当化すべく、イスパニアを異教徒の手から回復することを、高らかに帝国内外に宣言した。
彼によれば、今回の件は王位簒奪ではなく、神の思召しであり、何ら恥ずべきところはないというのである。
けれどもこの欺瞞に満ちた宣言を、異教徒の脅威にさらされているイスパニアの弱小独立諸侯は好意的に解釈し、
帝国の庇護を求め臣従する者が続出したことは、いかにイスパニアがイスラムの脅威にさらされていたかを如実に物語る。
そしてついにイスパニア最大のキリスト諸侯バレンシア公さえもが帝国貴族に序列されるとなった。

しかし帝国のイスパニアでの急速な拡大は、イスラム勢の雄たるセルジューク朝を刺激し、
イスパニアでの緊張は年を追うごとに高まり、セルジューク朝とフランケン朝の戦争は避けられないものと観測されつつあった。

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【フランケン朝およびセルジューク朝とで二分されたイスパニア】

ここに至ってレオポルド帝は、広大な領域を支配するセルジューク朝と単独で開戦する愚を悟り、
コンスタンティノーブルを失い失地回復に燃えるビザンツ皇帝イオアネス・ドゥーカスとの同盟交渉を行った。
しかし、1万5千以上の金貨をビザンツ帝国との交渉に費やすも、宗教問題が尾を引き同盟は不成立に終わった。
レオポルド帝は、正教もキリストを信じる者であると考え敵愾心こそなかったのであるが、
この交渉の結果を受け、彼らもまた異教徒でしかないと認識を新たにしたのである。

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【ビザンツ帝イオアネス・ドゥーカス】

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***イングランド継承への布石 [#b3bd0ab3]

レオポルド帝は精力的な君主で、イスパニアでの権益拡大を行う片手間でイングランドをも帝国の影響下に置こうと考えていた。

当時、イングランドはウェールズ王、スコットランド王と死闘を繰り返し、時のイングランド王リチャードの嗣子は皆戦死していた。
そこで、レオポルドは皇太子ウーリッチの妻として、リチャード王の子ベレンガリアを迎え
皇太孫アドルフをもうけることに成功した。

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【イングランド王リチャードの娘ベレンガリア姫】

イングランドの継承権をもつ貴族が謎の変死を遂げたり突然破門されたりと、レオポルドの謀略の結果
イングランド第一継承者は、レオポルドの孫アドルフとなった。

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これにより、近い将来イングランドも帝国の一部となることがほぼ確定したのである。
この頃のレオポルドの心配事といえば、ウーリッチとアドルフの健康であり、日に3度は彼らの顔を見ないと気が済まなかったという。

つづく


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