**トヴェリ公/ルーシ王Romanosの治世(ルーシ建国直後まで)
***1157年頃の情勢(再掲)
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黄:トヴェリ、黄緑:スモレンスク、橙:リャザン、紺:トランスオクシアナ、水色:グルジア、茶:ガリーチ、灰色:他のイスラム/パガン勢力

***ルーシ建国
Leo公の逝去後すぐにポーランド王から同盟の提案が舞い込んできた。
Romanosはこれを受諾すると同時にグルジア王国との戦争準備に入った。

トランスオクシアナ王国(旧ブロンスク公国)が国の主軸を大きく東に動かした今、
ルーシ建国の最後の砦となるのはグルジア王国であろう。
ルーシ中央部のモスクワと北東部のヴェーリキー・ウストゥグの2か所を奪取すればルーシ建国の条件は整う。

領地の兵力が完全に回復したところで直轄領すべての兵を動員し、上記2領の隣接地へ終結させた。
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''Romanos''「ルーシ統一のため、死を賭して戦え!」

1158年2月、グルジア王国へ宣戦布告。同盟国ポーランドも同時にグルジアに宣戦布告した。
グルジア側は直ちに兵を動員したが、ポーランド軍の動きを警戒してモスクワ救援を断念した。
''モスクワの戦い''
トヴェリ軍12000 VS グルジア軍3500 トヴェリ勝利
''ヴェーリキー・ウストゥグの戦い''
トヴェリ軍5000 VS グルジア軍900 トヴェリ勝利

1158年の夏には制圧が完了、いよいよグルジアの本拠地へ乗りこもうとした。
だがその時、封臣のガーリチ・メルスキー司教から救援要請が届いた。

''「トランスオクシアナ王国が我が領地に宣戦布告してきました!」''

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(赤丸がガーリチ・メルスキー)

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先々代のThomas公の時代に争ったガーリチ・メルスキーはその後トヴェリ公臣下の司教領となっていた。
グルジアとの二正面作戦とはなるが、臣下を見捨てることなどできない。直ちに宣戦布告を行った。
だが、トランスオクシアナ王はトヴェリ公直轄領の多くに対し請求権を保持していた。
そのすべてがルーシの中でも屈指の大領地。もし敗れればトヴェリ公国の存立にも関わるものであった。
Romanosは決断した。
''Romanos''「ここで敗れれば夢は断たれる…全領地に対し大動員令を発令する!」

20にも及ぶ臣下の全てがこの動員令を受けて兵を提供、トヴェリ公国の全勢力を投入しての総力戦となった。
近い地域の諸侯同士を合流させ3000〜8000程度の部隊を形成し、各地に配置。東方からの大軍に備えた。
1158年冬、旧ブルガールから動員されたトランスオクシアナ軍とガーリチ・メルスキーで接敵した。
''ガーリチ・メルスキーの戦い?''
トヴェリ軍3300 VS トランスオクシアナ軍4000 トヴェリ勝利
''ガーリチ・メルスキーの戦い?''
トヴェリ軍2000  VS トランスオクシアナ軍10000 トランスオクシアナ勝利
''ガーリチ・メルスキーの戦い?''
トヴェリ軍11000 VS トランスオクシアナ軍9000 トヴェリ勝利
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水色がトヴェリ軍、赤がトランスオクシアナ軍の進撃路

3度目の戦いを指揮したのはプスコフ伯Sviatopolk。齢は63を数えるが、かつてLeo公遁走で知られるモスクワの戦いで
最後まで踏みとどまって戦った勇将である(Leoの項目のモスクワの戦いの画像、''左から3人目の元帥''がSviatopolk)。
その後、それまでの功績をたたえてプスコフ伯となっていた。

同じ頃、グルジア王国本拠地のオレシイェでポーランド軍が勝利し、近隣の領地は
次々にポーランドの占領下に置かれていった。
1159年にグルジア王は屈服しモスクワ、ヴェーリキー・ウストゥグ引き渡しを条件に講和したい旨をRomanosに伝えてきた。
Romanosは直ちに受諾し、講話は成立。
これによってルーシ地域47か所中32か所、66%を超える地域の支配に成功した。
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そしてついに、Alexandrii・Rodislav・Thomas・Leoの各公が夢見たその時がやってきた。
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''ルーシ建国''

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***決戦・スーズタリ
ルーシ王となったRomanosは保有する公爵位の配分を行った。ガーリチ・メルスキー司教とプスコフ伯Sviatopolkには
防衛戦での功績を称えてそれぞれスーズタリ大司教・プスコフ公の称号を授与した。
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その間にも戦闘は次々に発生した。
''チョルティージャの戦い''
ルーシ軍5500 VS トランスオクシアナ軍16000 トランスオクシアナ勝利
''ペレヤスラブリの戦い''
ルーシ軍14000 VS トランスオクシアナ軍14000 ルーシ勝利
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''ヴラジーミルの戦い''
ルーシ軍8000 VS トランスオクシアナ軍7500 トランスオクシアナ勝利
''モスクワの戦い''
ルーシ軍2000 VS トランスオクシアナ軍4500 トランスオクシアナ勝利
(モスクワはトランスオクシアナ軍に包囲)

トランスオクシアナ軍本隊25000は北上を続け、ブルガール地方を攻撃していたルーシ直轄軍9000を軽々と粉砕したが、
多数の領地を移動する間に消耗を重ねルーシ領との国境付近に到着した際には11000程度に減少していた。
(その他にキエフ周辺のトランスオクシアナ諸侯軍8000、モスクワ攻撃部隊5000)

一方のルーシ軍はガーリチ・メルスキー防衛に12000(Sviatopolk指揮)、キエフ防衛に5000(Romanos指揮)、
別動隊(後述)4000と再編成したノヴゴロド勢5000。
ノヴゴロド勢はモスクワ防衛のために派遣していたが、トランスオクシアナ王Rodislavが率いる本隊が目指す先が
ルーシ王直轄領スーズタリであると判明、モスクワ救援を中止しスーズタリへ急行するよう命じた。
同時にガーリチ・メルスキー防衛の諸侯軍にもスーズタリへ向かうよう命じた。
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そして1159年11月
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ノヴゴロド勢が到着しないままスーズタリで両軍の戦闘が始まった。指揮はプスコフ公Sviatopolk

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まさに一進一退の攻防、激戦であったが…

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ノヴゴロド勢が到着すると形勢は一気にルーシ側に傾き、トランスオクシアナ軍はほぼ壊滅。
トランスオクシアナ王Rodislavは重傷を負って退却していった。

それと時を同じくして別動隊が空となったトランスオクシアナ王国本拠地を占領し、略奪して回った。
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ホラズム近郊の全地域を抑えたところでトランスオクシアナ王国が持つルーシ王への請求権
ノヴゴロド、トヴェル、ロストフ、スーズタリ、ペレヤスラブリ・ザーレスキィの全てを放棄させることを
条件とした講和を提案、数日後トランスオクシアナ王は承諾する旨を伝えてきた。
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ルーシ全土を巻き込む大戦争は終結した。

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ルーシ王としての地位は確固たるものとなった。が、未だに多くのルーシの公爵号は他の勢力が保有している。
Romanosは兵や金貨の補充が完了し機が熟し次第、さらなる領土拡張へと乗り出すことを決定した。


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