スイス公への挑戦/4代目 謀略の人Bruno

スイス公への挑戦/6代目 篤信者Otto

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6代目Aargau伯、篤信者Otto [1141-1185]。
卓越した武勇でHabsburg家の勢力を拡大した一方、 生涯を神に捧げ子を残す事はなかった。

父Gotthardの真実 [1121-1162] (5代目)

神よ、我が父Gotthardと我が曽祖父Brunoの罪を許したまえ。

私はAargau伯Otto、人々に悪魔と恐れられた5代目Aargau伯Gottohardの息子です。我が父Gotthardは曽祖父Brunoの罪と自分がこれからなすであろう悪徳の罪を償うため、私に神に仕えるように申し付けました。このような事は普通ならば我が弟達の役目、にも関わらず、長子たる私に申し付けた事は、かつては無神論者として知られた父でさえ、自らの罪の大きさに恐れをなしていた事を示すものでしょう。

曽祖父Brunoより家督を継承する以前の父Ottoは無神論者として知られていました。その父が教会の求めに応じて十字軍戦士たらんと言い出した時は、宮中のみならず領民皆が驚いたものでした。父は早速盛んに密使を送り込み中東の情勢を探っておりましたが、一通りの調査を終えると十字軍の不可を唱えるようになりました。

父が語るには、数十年前にギリシャ人の帝国を打ち破りByzantionを占拠したトルコ人の王国には、街という街には財宝がうず高く積まれ、戦士達はきらびやかな武具に身を包み、トルコ人の王に仕える諸侯は一糸乱れぬ統制を保っており、その動員能力たるや100万とも200万とも言われ、アレクサンドロス大王の再来でもなければ、たとえキリストの諸国が団結して戦いを挑んだとしても勝利は覚束ないであろう、と。

スイスの地はドイツとイタリアの中ほどにあります。イタリアからは教皇の十字軍を求めるための特使がドイツへと向かい、ドイツからはその返答の使者がイタリアへと向かいます。父は私達の城館に宿を求めるその使者達に、Byzantionへの十字軍の不可を説き、一方で教皇は聖都Jerusalemの事をお忘れになっている、と訴えました。その訴えに耳を傾ける者ありましたが、教皇の意に沿わぬ不信心者であると非難する者も多かったのです。とはいえ、父の訴えは皇帝の耳にも届いたとの事で、一時はByzantionへの十字軍にやる気を見せていたRudolf帝(3代目)が十字軍の旗を掲げる事はついにありませんでした。

後に父に聞いたところでは、トルコ人の王国はペルシャからギリシャへと広がってはいるものの、その王の威令に従わない者も少なくなく、Mosulの太守などは王の使わす役人が自領に入るのを拒んでいるほどであり、もし賢明なるRudolf帝が十字軍を行えばByzantionの奪回は間違いないだろうとの事でした。しかし、父がまた語るには、たとえByzantionを攻略する事ができたとしても遠いペルシャの地にまで攻め込む事は容易ではなく、戦いは10年20年と続き、そのうちにRudolf帝が亡くなるような事があればドイツは必ず乱れる事になるだろう、と。一方でエルサレム藩王国は小さく弱く、たやすく聖都を奪い返す事ができるというのに、Byzantionにこだわる教皇の思し召しは理解できぬと。

結局、父は現実主義者であるために十字軍に疑問を持ち、他方で根は真面目であったために十字軍の非を人々に説かざるをえなかったのでした。しかし、教皇の意に異を唱える事はこのキリストの地においては大変危険な事であります。人々は父を悪魔のようだと言いますが、ずる賢い悪魔が敢えてこのような危険を冒すでしょうか。父は私にこう語った事があります。私は生まれる時代を間違えた。神でなく合理的精神に支配された古のローマに生まれたかった、と。なるほど、その通りなのかもしれません。

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セルジューク=トルコがやや分裂気味ながらも大勢力を維持するが、
ファーティマ朝は完全に分裂し、エルサレム藩王国は孤立している。

破門されるまでの父は至って誠実な人物でした。十字軍の事も父の父なりの誠実さゆえの事でした。唯一の例外といえばSchweiz伯の事です。私の母IrmgardはSchweiz伯の長女であり、それゆえ私は生まれながらにして将来のSchweiz伯の地位を約束されていました。その母は私が幼子の頃に亡くなりましたが、時を前後してSchweiz伯の妻が長男を産むという事件がありました。40にもなろうとしていたSchweiz伯の妻が今更子をなすとは大変怪しい話であり、当時の家中でも私の母Irmgardが亡くなった事で気の変わったSchweiz伯が妾腹の子を正妻の子としてでっち上げたのだろう、とさんざんに騒がれたものと聞いております。父は家中の騒ぎとは距離を置いていましたが、ある日、私を教会に連れて行き、私が3才の時の事で今でもその事をかすかに覚えていますが、この子を神に仕えさせる事に決めたと語り、私はそのまま教会で育てられる事となりました。突然見知らぬ教会で暮らす事となった私はずいぶんと泣き喚いたものです。その私が、父が私にSchweiz伯を継承させるために母Irmgardの弟を暗殺した、との噂を聞いたのはかなり後になってからでした。思えば、これも父の優しさだったのでしょう。私は父の悪徳の噂に悩まされる事なく清浄な教会で健やかに育つ事ができたのです。

その父が教皇の特使より破門の通告を受けた時の事は今も忘れられません。父は常に冷静であり感情を表にする人物ではありませんでしたが、その時ばかりは怒り狂い、また、嘆き悲しみ、あるいは呆然とするばかりで家中の者は言葉もかけれない有様でした。十字軍に対し異を唱えた事が災いしたという言う者もあり、家中や領内は大いに騒がれたものですが、父と同じようにDauphine公やGrisons伯が破門された事が明らかになると、この破門が南隣の教皇後見人Valais伯Gautierの私怨であるという話にもなり、いくらか人心は収まったものでした。かくて邪悪なGautierの思惑と異なり父の領内経営が破綻する事がなかったのは、まさに父の20年のよき統治の賜物でありましょう。

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教皇後見人Valais伯Gautier [1122-1170]。
教皇権を私物化し、近隣のDauphine公、Aargau伯、Grisons伯を次々と破門した。
早くよりGotthardの危険を見抜いていた事で後に福者に列せられる。

破門は父にとって大きな転機を与えました。その少し前にRudolf帝より帝位を継承したDirk帝(4代目)は凡庸ではありましたが無能ではなく、その嫡男Pellegrinoは英邁な人物として知られ、ドイツの秩序が乱れようとは誰も考えておりませんでしたが、Dirk帝には常々悩みの種となる次男狂人Florisがおりました。このFlorisは、世間では父が魔術で狂わせたという事になっておりますが、少年でありながら異端の教義を公然と唱えそれを家臣に強要するという、父のように教会と意見が異なっていただけの者ではない、本物の異端者でありました。父はそのFlorisに気に入られたのです。というよりも、Florisは教会より破門されていた父に勝手に親近感を抱いてきただけのようなのですが、そのために父は伯領を留守にして帝都Leiningenに留まる事が多くなりました。

それからしばらくの事です。Dirk帝の嫡男Pellegrinoが変死したのを契機として帝国の宮廷に陰謀と謀略の嵐が吹き荒れ、宰相Gerritを始めとした多くの延臣が命を落としました。Trevisoの惨劇*1であります。人々の言う所によれば、父Gotthardは黒魔術でFloris皇子をかどかわしたばかりでなく、喚び出した悪魔を使役して宮中の延臣の心までをも蝕みこのような惨禍を招いたとの事ですが、元よりイタリアかぶれのPellegrinoに反発する人臣も多く、かといって異端者Florisは帝位にふさわしくないとの事で、父帝と同じ名を頂いた3弟Dirkを押す派閥もあり、父はその一翼を担ったに過ぎませんでした。その意味で言えば惨劇の犠牲となった者のうちいくらかは父の仕業でありましょうが*2、父が黒魔術でもって宮中を崩壊に追いやったなど荒唐無稽な話であり、悪魔を喚び出したのだとすればそれは異端者Florisであり、父はその悪魔に操られた一人にすぎないのです。

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Dirk帝の第2皇子狂人Floris [1143-1192]。
謀臣Aargau伯Gotthardと謀って兄を暗殺するも、破門と父の長命により帝位の継承はならなかった。

とはいえ、Trevisoの惨劇によりDirk帝の統治に目に見えて乱れる事となりました。そして、父は皇帝に反旗を翻したLower Lorraine公との戦いにFloris皇子に従って従軍しその時に負った傷が元で亡くなりました。臨終の際に父は私に尋ねました。「神はいるのだろうか?」私は答えました、「おりますとも。」すると、父はつぶやきました。「ならば私は地獄に堕ちるのであろうな。」そこで、私はこう父に誓いました。「ならば私が父に代わり祈りを捧げましょう。人一人が生涯を祈りに捧げるのならば、どうして人一人のなした罪が償われない事がありましょうか。」父は私の言葉に静かに耳を傾けていましたが、しばらくの後に「ありがとう」と語り、それが父の最期の言葉となりました。

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5代目Aargau伯、破門者Gotthard [1121-1162]。
黒魔術を駆使してドイツに大空位時代をもたらした悪魔として昔話に語られる。

ドイツの内乱の事、私Ottoの事

私はSchweiz伯の一人娘Irmgardを母として生まれ、それゆえに生まれながらにしてSchweiz伯の地位を継承する事を約束されておりました。しかし、この事をよく思わなかった者もおります。Schweiz伯の主君たるSwabia公*3です。Schweiz伯領が皇帝の直臣たる私の手に渡ればSwabia公領は目減りする事になりますし、また、3男に与える領地が不足していた事もSwabia公の頭を悩ませておりました。折りしもドイツを覆った戦乱の火の手はますます広がり、先年には北イタリアのMilano公がスイス南端Grison伯領と共に皇帝に反旗を翻したところだったのです。皇帝は反乱の討伐に終われ諸侯の抑える事などかなわなくなっておりました。こうなればSwabia公の我がままを阻むものなどありません。当然、Aargau伯など大諸侯たるSwabia公の眼中にはありません。Swabia公は3男の成人の日を持ってSchweiz伯は領土を召し上げ、そのまま3男を新たなSchweiz伯として立てたのでありました。父には私が生まれるや否やSchweiz伯を暗殺し私に伯領を継承させる事もできたはずです。しかし、それをしなかったのは私に血塗られた道を歩ませたくない父の私に対する優しさなのでありました。*4

Swabia公の横暴の後もドイツの戦乱は続き、ついにはDirk=Franken帝が簒奪者Lower Rorraine公Reinhard=d'Ardennesに敗れドイツ王位を失うという事態に至りました。しかし、ドイツ王位を獲得したReinhardもフランドルの地で行われた決戦の際に負った傷で床につきドイツをまとめる事ができません。私はDirk=Franken帝に従いフランドルの地へと赴いて戦いに敗れ、その足で簒奪者Reinhardに忠誠を誓わされてきたのですが、そのReinhardはやはり恐ろしい人物でした。Reinhardは教皇より得られた特許状を私に示し、先年、Bern司教領がDirk帝に背き、かといってReinhard帝に従う事もなく様子見を決め込んでいたのですが*5、そのBern司教領を討つように命じ、攻略の暁には私がBern伯領を与えようと語りました。もし、Dirk帝との戦いが長引くようであれば、この餌でもって私を釣るつもりだったのでしょう。

事の是非はともかく、今や名実共にドイツ王たるRainhardと教皇の特許状を得たからには私がそれに逆らう理由はありません。私は自領に戻るなり準備を整えてBern司教領に侵攻しました。この戦いに特に語るべき事はありません。十字架とドイツ王国の旗を掲げて侵攻した我が軍の前にBern司教の配下の兵達は恐れをなしてたちまち逃げ去り、私は容易くBernを攻略する事ができました*6

執筆休憩中。


*1 Pellegrinoの封地
*2 いくらか、どころか全部Gotthardの仕業。7人くらい暗殺して4回発覚
*3 素晴らしいプレイレポで有名なRheinfelden家
*4 Otto誕生後にSchweiz伯をOttoもろとも暗殺しておけば…。Rheinfelden家伝筆者には謝罪と賠償を(略
*5 Bern伯はBrugundy王国内にあるので、ドイツ王位しか持たないRainhardには従わない
*6 動員兵力で勝っている上、Ottoの軍事力は17!、負ける要素なし

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