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Williamの時代(1066~1097)

ローマ皇帝にして
イングランド・ウェールズ・ブルターニュ・スコットランド・フランス・アクィタニア・シチリア・アイルランド・ロタリンギア・レオン・
ナヴァラ王にしてヴェネツィア独裁官、チュートン騎士団総長(13冠)

Williamを讃う。

父のことについて、その跡を継いでいる私・次男Richardが記そうと思う。
このことで後世の歴史家が少しでも楽になるよう願いつつ。

私生児として生まれた父Williamは1035年にNormandy公領を継ぐことになった。当時はまだ私生児といっても
今ほど悪く言われることはなかったようであるが。
30年間力をじわじわと蓄え、隣国イングランドで内乱が発生、ハラルドが王位を僭称すると
本来自分こそイングランド王であるとし、ハラルドの違約を責めた父は
世に言うヘースティングスの戦いで乾坤一擲これを破り、王となった。
1066年、父が39歳の時のことだ。

イングランド王になった程度では父の野心は収まらなく、国は拡大の一途をたどる。
1071年1月に西方・ウェールズを治める諸侯を臣従させこの王位を創設。
同年8月に友人ブルターニュ公の臣従を受けブルターニュ王位を創設した。
また北方スコットランドで内乱になったのを見るやこれに攻め入り
1072年6月にスコットランド王に就く。

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ブリテン島を史上初めて統一した父はいよいよ大陸に目を向けた。
1074年8月、暗愚なフランス王が同盟国のローマ帝国に協力して軍を出した隙をつき
この王位を攻め取ったのである。彼の暗愚さには諸侯も愛想を尽かしていたのか反対は少なかった。
1075年10月、フランス南部にアクィタニア王位を創設。最早イングランド王国は国際社会で揺るぎない地位を手に入れた。

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1076年9月。教皇聖下はエジプトの玄関であり、ファティマ氏の統治下にあるアレクサンドリアをキリスト者の手に
奪還するよう各国に檄を飛ばされた。
そこで父が狙ったのは地中海の要衝シチリア島である。幾ら何でもイングランドやフランスから
軍を直接現地へ向かわせることは難事であるため、ここを足がかりとしようと計画したのだ。
彼の大都市パレルモを陥落させるのとほぼ同時に、内乱に困った同じノルマン出身のアプーリア公が臣従してきたので、
1078年6月にシチリア王を創設した。

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準備完了した我が国がファティマ氏と戦っている最中、何と教皇は目標をアレクサンドリアから
カスティリャ王国が失陥したブルゴスに変更なさった。ここをもって第二次十字軍、と呼ばれている。
梯子を外された形となった父は困惑したが、1082年2月に予定通りアレクサンドリアを得る。この都市はその後も我が国の最重要拠点であり続けた。

1082年2月、第一次十字軍を成功させた父へアイルランドの諸侯が続々臣従してきたので、アイルランド王を創設する。
1086年10月、封臣が始めた戦の結果としてライン川西岸の多くを獲得、ロタリンギア王を再興した。
1087年9月、大都市ヴェネツィアを奪い、執政官に代わりヴェネツィア独裁官を名乗る。
1089年3月、東方に創設されたチュートン騎士団の総長に就任する。

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これらのことで力を充分蓄えたと判断した父は第二次十字軍へ出立。
1090年5月、首尾よくブルゴスの開放に成功した。
さらにイベリア半島に勢力を確保しておくべく
1095年1月にはレオン王を奪う。

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1095年8月、我が国にとってとても喜ばしい報が飛び込んできた。
2度の十字軍を成功させた我が国に対し、教皇が内乱続くドイツより取り上げた皇帝位を授与したのだ。

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これ以降父は征服王から征服帝と呼ばれるようになった。
同年10月にはさらに破門されたナヴァラ王位を奪った。

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そうして1097年6月に父は昇天、即座に福者に認定されることとなったのであった。

1097年6月の世界情勢

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ドイツ…。
(チュニスのZirid朝と色が被っている)


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