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待たせたな諸君!
吾輩こそガスコーニュ公リチャード。通称LionHearted。
戦争の天才だ。
イスラムのカリフでも殴り倒してくれようぞ!
でも我が友フランス王フィリップだけは勘弁してほしい。
「征服帝」Williamの時代(1066~1097)

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ローマ皇帝にして
イングランド・ウェールズ・ブルターニュ・スコットランド・フランス・アクィタニア・シチリア・アイルランド・ロタリンギア・レオン・
ナヴァラ王にしてヴェネツィア独裁官、チュートン騎士団総長(13冠)

さて現在は神の暦にして1187年。
私は両親からガスコーニュ公を相続している…が父ヘンリとは13年前戦争しており、
現在再臣従してはいるが大変に険悪な状態である。
今は一応臣従している。父はさっさと死んでくれないものか。
Williamを讃う。

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父のことについて、その跡を継いでいる私・次男Richardが記そうと思う。
このことで後世の歴史家が少しでも楽になるよう願いつつ。

内政に励んでいると、私に廷臣がささやいてきた。
父君との関係をどうなさいますか?と。
父は憎いが遠くない未来私が得るイングランドを荒らしても得は無い。
それに父を屈服させるには長駆イングランドを制圧する必要があるが、
それだけの軍を仕立てる金は無い。まだ一応服従しておこう。
私生児として生まれた父Williamは1035年にNormandy公領を継ぐことになった。当時はまだ私生児といっても
今ほど悪く言われることはなかったようであるが。
30年間力をじわじわと蓄え、隣国イングランドで内乱が発生、ハラルドが王位を僭称すると
本来自分こそイングランド王であるとし、ハラルドの違約を責めた父は
世に言うヘースティングスの戦いで乾坤一擲これを破り、王となった。
1066年、父が39歳の時のことだ。

1190年10月、尊敬する母が亡くなった。
ヘンリに投獄されたままで・・・。「命ある限り、奴は私の敵だ。」
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イングランド王になった程度では父の野心は収まらなく、国は拡大の一途をたどる。
1071年1月に西方・ウェールズを治める諸侯を臣従させこの王位を創設。
同年8月に友人ブルターニュ公の臣従を受けブルターニュ王位を創設した。
また北方スコットランドで内乱になったのを見るやこれに攻め入り
1072年6月にスコットランド王に就く。

いたたまれない思いをぶつけるため翌年11月、地中海マリョルカの独立イスラム君主を
打倒すべく進軍。同盟のサヴォワ公と諸島を分け合って、地中海の要衝を抑えることとなった。
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そうしているとイングランドが内乱状態になった。
とはいえ軍事的にこれに負ける父ではなかろうし、
再三言うが私が相続するイングランドを荒らしても無意味だ。
母の仇を討ちたいがぐっとこらえて私は静観を決め込んだ。
1195年には何と弟のミーズ公ジョンがヘンリに歯向かった。ずいぶん可愛がっていただけにヘンリの落胆もひどかろう。
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1195年7月、教皇聖下が第3次十字軍を発令なされた。此度の十字軍は
かつて大司教座のおわしたエジプトの玄関、アレキサンドリア。
母が旅立った十字軍に私も参加したいものだ・・・国中の全てを売り払ってでも。
だがその売るものすらまだ我が手にはない。堪えねば。
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1197年3月。ヘンリーから平和裏に独立する好機が訪れた!私は常々、
この獅子が父からのうのうと国を継いでよいものか。いや良くない。と考えていた。
自らの力で王冠を得るべきではあるまいか。
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ブリテン島を史上初めて統一した父はいよいよ大陸に目を向けた。
1074年8月、暗愚なフランス王が同盟国のローマ帝国に協力して軍を出した隙をつき
この王位を攻め取ったのである。彼の暗愚さには諸侯も愛想を尽かしていたのか反対は少なかった。
1075年10月、フランス南部にアクィタニア王位を創設。最早イングランド王国は国際社会で揺るぎない地位を手に入れた。

私が自力で得るべき国として、隣国ナヴァラに狙いを定めた。
わずか2州で国として立ち行くわけがない!輝け我がエクスカリバー!!
そう宣言してピレネーを越え、
あっさりと制圧したのが1197年7月のこと。
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私はナヴァラ王となった。
さあ十字軍・・・と思いきやヘンリーが内乱の中重傷を負ったとのこと。しかも64歳、長くはあるまい。
イングランドを継げばその後始末をせねばならないだろう。
私は待った。現地のアイユーブ氏が我輩以外に敗北せぬよう祈りながら。
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1076年9月。教皇聖下はエジプトの玄関であり、ファティマ氏の統治下にあるアレクサンドリアをキリスト者の手に
奪還するよう各国に檄を飛ばされた。
そこで父が狙ったのは地中海の要衝シチリア島である。幾ら何でもイングランドやフランスから
軍を直接現地へ向かわせることは難事であるため、ここを足がかりとしようと計画したのだ。
彼の大都市パレルモを陥落させるのとほぼ同時に、内乱に困った同じノルマン出身のアプーリア公が臣従してきたので、
1078年6月にシチリア王を創設した。

***[[第3次十字軍]] [#n9649b67]
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準備完了した我が国がファティマ氏と戦っている最中、何と教皇は目標をアレクサンドリアから
カスティリャ王国が失陥したブルゴスに変更なさった。ここをもって第二次十字軍、と呼ばれている。
梯子を外された形となった父は困惑したが、1082年2月に予定通りアレクサンドリアを得る。この都市はその後も我が国の最重要拠点であり続けた。

1082年2月、第一次十字軍を成功させた父へアイルランドの諸侯が続々臣従してきたので、アイルランド王を創設する。
1086年10月、封臣が始めた戦の結果としてライン川西岸の多くを獲得、ロタリンギア王を再興した。
1087年9月、大都市ヴェネツィアを奪い、執政官に代わりヴェネツィア独裁官を名乗る。
1089年3月、東方に創設されたチュートン騎士団の総長に就任する。

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これらのことで力を充分蓄えたと判断した父は第二次十字軍へ出立。
1090年5月、首尾よくブルゴスの開放に成功した。
さらにイベリア半島に勢力を確保しておくべく
1095年1月にはレオン王を奪う。

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1095年8月、我が国にとってとても喜ばしい報が飛び込んできた。
2度の十字軍を成功させた我が国に対し、教皇が内乱続くドイツより取り上げた皇帝位を授与したのだ。

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これ以降父は征服王から征服帝と呼ばれるようになった。
同年10月にはさらに破門されたナヴァラ王位を奪った。

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そうして1097年6月に父は昇天、即座に福者に認定されることとなったのであった。


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