イングランド王国史−あるプレイヤーの日記

はじめに

CKのシステムに惚れ込んだある新米プレイヤーがつづる3回目のプレイのイングランド王国史です。とくに時間の許す限り終わりまで行こうと思います。すみませんEU最後まで通してプレイできません。あとつまんねーって声たくさんでたら遁走することにします。すんません。

プレイ条件は以下の通り

ウィリアムの治世

1066年エセックスでウィリアムは今後の方針を発表した。大まかなものとしては自国内の直轄地の改編とウェールズ方面への侵攻である。
だがイングランドの土地は痩せておりノルマンディーという橋頭堡から息子に虎視眈々と肥沃なフランスの国土を狙わせることにした。
とりあえずBBRの減少期間に内政をすることにしてケント候をあらぬ罪で攻撃。属領ごと撃破しこれを直轄とした。その一方で特に痩せたコーンウェルの方面には次男を封じコーンウェル侯とした。
味方攻撃はBBRの上昇だけでなく相性的な忠誠心の現象も引き起こす。ノーフォーク候を攻撃すると属領の叛逆が止められなくなるだろう、という臣下の言をいれたウィリアムは減少した本領の兵力を回復する意味も込めて内政に励むことにした。

1080年になるとノーフォーク候から富める(といっても彼女が譲り渡す程度の差だが)州を召し上げ、その開発も終了。ついにウェールズへの侵攻を決定した。コーンウェル候などの称号新設による威信値で文句を付け続けざまに侵攻。85年までにウェールズ一帯を傘下に治めイングランド王であるノルマンディー候ウィリアムはウェールズ王を同時に兼ねる事となった。

この年、3男をヨーク候にし、彼を大将として北方の軍をもってスコットランドに侵攻。翌年にはスコットランド王の所領が消滅しブリテン島北部は戦乱の時代へと発展した。だが収入の低さに驚いたウィリアムはその騒乱にそれ以上関与せずに南方をにらみながらBBRの回復に努めた。

1093年。この年、十字軍の発動が諸侯に伝えられた。だがイングランドから遠く聖地に軍を送るのは不可能であり、ウィリアムはこれを黙殺しようと腹を決めていた。

1094年、事態が急変する。フランス王家がイベリア半島のイスラームと開戦したのだ。同盟国であるフランスを助けるか否か。御前会議は紛糾し返事が遅れる中ウィリアムの書間の封と送り先の署名のミス[プレイヤーのクリックミス]でフランス国内内戦に参加してしまったのだ。−−フランス王家の敵として。

千載一遇。いや、怪我の功名か。兎にも角にもイルデフランスはがら空きなのだ。同盟破棄があったはずだがそれによるBBRの上昇も少ない。ノルマンディー候に総動員令を出し、本領軍をつれてウィリアムは20年ぶりに大陸の地を踏んだ。

首都へ!
フランス王家の旗が置かれた都へ!

統率力15を誇るウィリアムの率いた5400のイングランド軍は南方に進出したフランス軍が戻ってくる前に陥落させてしまった。−−まぁそんなことは不可能なのだが。南方戦線は膠着していたのだから。

残る直轄地であるオルレアンをも落としイルデフランスの割譲でフランスとの和平が結ばれた。ここを直轄とすることによって当時進んでいたフランスの開発が終わった州からの収入により王家は潤った。

ウィリアムは自分の限界を感じていた。もともと自分の治世力は高くない。さらに病気によって能力の補正は厳しくなり、愚かだが有能なNO.2は自分を補佐官にしろと言って来る。だが心躍る戦場は遠くに行ってしまった。もはや高くなりすぎたBBRによって離反にいたったブリテン島の地方伯をも放置しなくては皆の忠誠をプラスに保てなくなっていたのだ。

1095年になると教会からクルサイダーの称号を戴いたものの当然外征もできず、教会の期待にこたえることができないまま信仰心を失っていった。
1099年、長男ロバートが病死。数日にわたってウィリアムはむせび泣いたというが、その後はますます統治に力をいれ精力的に活動した。
1112年、8月の暑い日の朝、イングランド王ウィリアム、死去。85才であった。
長い冷戦が終わりを告げようとしていた。そしてその長期の内政期間と忠誠心の低下を遅延するための贈り物により本領も属領も開発され、軍隊はそろった。ウィリアムの死によってBBRも半減する。イングランド・ウェールズの再統一が迫っていた。

フィリップの治世

フィリップはブリテン島の南を再統一するという父の希望に沿うべく行動を開始した。軍を動員し、新たに侯爵を作り威信を稼ぐ。

17年までに3人の伯爵と2人の侯爵を攻め滅ぼし王国に平和が訪れた。だが彼はこの広大な領土を統治するすべを持ち得なかった。いや、当時のどの王でさえもそのような巨大な直轄地を統治するのは不可能だっただろう。
宮廷から人を出せばまた再び反乱が起こるのでないか、そう考えたリチャード。だが彼の血縁は少なく故ロバートの子供を血縁と信じ諸侯に封じることとした。

そう考えたフィリップは各地に彼女を派遣した。ロバートの子供は女性が多く、彼女らはみな優秀だったため(なんと特に皆軍事的才能を持っていた!)ノーフォーク、オックスフォード、ヨーク。女性侯爵が大量に誕生した。

これで一安心。祖父ウィリアムの失政であったフランス王家との断絶も結局は決定打に欠いたフランス側から再同盟を提案してきたことだし。

1119年クルサイダーの称号を受けたフィリップは受けた。だが状況は大きく変化した。イングランドの真南、ブリタニーはいまやムスリムに占領されている。ここを叩かねば本当にイングランドは笑いものになる。フィリップは軍隊の動員を決意した。剣でもって異教徒を駆逐するのだ!

1120年、フィリップ以下6800がサセックスよりブリタニーのレンネスに上陸。同地の3200のムスリムたちを蹴散らし瞬く間にブリタニー6州を併合した。1121年。イベリアのザラゴザの勢力を完全にブリタニーより追い出し開発をしつつこれを長男であるノルマンディー候ヘンリーに預けた。この戦闘で何回か死線を潜り抜けたフィリップは命運尽きたらしく1122年より病気にかかりついには在位わずか17年でこの世を去ることになった。享年58才、冬の極寒の日であった。
ブリタニー併合は速攻であったため兵力の損耗は少なく、ヘンリーにイングランド王国はほぼ完全な形で手渡されることとなった。

ヘンリーの治世

1129年。フィリップの長子であるヘンリーが即位。即位の前からではあるが彼には大きな悩みがあった。長男であるギュイラウム?(Guillaume)が気に入らなかったのである。用は彼が馬鹿だったからだ。戦をやらせれば負ける、陰謀とは縁が無い、政治的感性も無い、領土統治能力もかけている、といった具合である。

フィリップ即位後の領土分けにおいてはその影響が如実に現れた。フィリップ候のお膝元であったブリタニーは大半が3男のジョンに与えられたのだ。(長男はデイフォード伯としてデイフォード一州を治めていた。)(次男であるランドルフは即位に先立つこと20年前に病気で死亡していた。)ジョンは長男と違い聡明でとくに統治能力に優れている人物であった。

だがフィリップは迷っていた。長子であるものがお家を継ぐのは当然だ、と彼は感じていたのだ。それも1134年にギュイラウムが病気にかかり、唯一の子供が若年で死亡するともはやこれまでと思ったのだろう。フィリップと彼の腹心とが密会を多く行いだした。

イングランドの南東、神聖ローマ帝国(=ゲルマンキングダムでいいんですよね?)。1136年そのさらに東のプロシアの蛮族が帝国貴下のブランデンブルグ家を滅ぼすと帝国は重い腰を上げて蛮族に対して宣戦布告。それに際してイングランド王家にも同盟国として援軍要請が来た。先立つ1135年にクルセイダーを叙任したフィリップにとっては渡りに船。

配下の一門侯爵家とコーンウェル候に動員をかけて海を渡ることとなった。フィリップ本隊は彼らとは別に海を渡った。総勢13000。これをフィリップ本隊の3300とヨーク候を大将にした4600、ノーフォーク候を大将とした5100で三方面より上陸した。帝国がすでに攻囲に入っていた西側にはフィリップが上陸し、厚かましくも(といっても3000の大軍だが)領土を奪い去った。この結果8州からなるプロシア蛮族は完全に壊滅し7州に至るまでがイングランド王家の領地となった。大量の威信値をつかって領土権を主張していた神聖ローマ帝国だがまさに後の祭りであった。というか中核州だったのかな?

この戦争の最中、病気を理由に出陣を免除されていたディフォード伯が突然死亡。侍女が食事に毒を盛ったのだなどとうわさが飛び交ったものの表面的には何事も無くディフォードが王家直轄になった。

1140年にはプロシア方面での戦闘が終結。莫大な戦費がかかったものの王家の貯蓄は出費をはるかにしのぎ、平和な時代が訪れると又恐ろしい勢いで増え始めていた。プロシア蛮族制圧時、信仰値は1500に達したという。

フィリップはその後はプロシアの領土分けなど内政に勤めた。三男であるジョンはブリタニー5州を治める侯爵となり彼の兄弟もプロシア方面の侯爵を叙任した。

1150年にはマリンベルグ蛮族を攻撃、これを撃破。だがチュートン騎士団が蜂起し、領土の拡張はままならなかった。3回にわたり併合と独立を繰り返される中フィリップは急速に衰えて行った。4回目の独立を仕方なく認めたフィリップはその次の日息を引き取った。1161年の春であった。

彼の最後を看取ったジョンはヘンリーから何か遺言を聞き取ったと言うが定かではない。「彼は耳打ちをされた直後目を見開き脂汗を流したが、その遺言を公開しなかったばかりで無くそんなものは聞こえていなかったといった。」と宮廷に使えていた老年の武官は日記に書いている。

ジョンの治世

ジョンは即位すると以外な方からの書簡に驚くことになった。なんとザラゴザのムスリムからの停戦状である。「そうか、まだやつらと戦争をしていたのか!」ジョンは驚いたがすぐさま停戦を受けることにした。よく見ればブリタニーに彼らの7000の兵が上陸しかけていたのだ。

領内に大規模な減税と教会への献金などをするようにして巨額の富の配分をする一方でフランス王国と神聖ローマ帝国の中央でどちらの勢力にも属していなかったブルッグ侯を攻撃した。イングランド本国より10000の直轄軍が攻め寄せわずか7ヶ月でその属領を含めた4州を手に入れる。

このころノルマンディー一族には悲願とでも言うべきものが存在していた。ズタボロになったフランス本国。それを駆逐しノルマンディー候がイングランド、ウェールズ、そしてフランスの王を兼任するという夢である。北部はフランスの管轄を離れた候・伯が蠢きローマ帝国もはるか南の教皇領もフランス北部を狙っていたのだ。

そういった北部フランス諸侯に根回しをする一方、世継ぎにもジョンは頭を悩ませなくてはいけなかった。長男が又も世継ぎとしてふさわしくなく、息子もいないとあっては・・・。ディフォードに封された者は成長できないのか?とヘンリーは思ったものだ。−−もっとも当時ディフォードに長男を封したのはジョン自身なのだが。

1168年8月、ディフォード候エドワードが死亡。病気でこの世を去っている次男ステッペンの息子レンネン伯ジョンはまさか、あれはうわさではないかと思いながらも身辺を固め長子、同名のジョンの警護を厳しくした。二人のジョンがノルマンディー家の相続トップとなっていたのだ。その一方でヘンリーは家督相続第三位となった同じくステッペンの息子リチャードに目をつけていた。彼の敏腕な統治能力は海峡を挟み何年もあっていない氏族達の優劣を冷徹に見抜いていたといわざる終えない。(彼はブリタニー候時代よりブリトン島に本拠を構えていた。)

だが。同年10月、今度は心身ともに健康であったはずのイングランド王ジョンが死亡してしまうのだ。あまりにも短命である。ヘンリーが死んでより7年。ウィリアムより長孫、長男、三男、次男の長子とノルマンディー家の頭首はどうも長男には行きづらいらしい・・・。そして新王であるジョンも又、自分の長子の能力には疑問を抱いていた・・・。

#やっとプレイしたところまでAARが追いつきました。あれ?AARってプレイ終わってから書くのかな?

#そしてジョン王とその第一相続者ジョンとその息子ジョンとは、、分かりにくすぎますね。orz分かりにくかったら適当なところで指摘してください。


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