クルセイダーキングス<百年戦争の時代>

百年戦争前史

1328年にフランス王シャルル4世の死によってカペー家が断絶すると、王位は傍系のヴァロワ家のフィリップ6世のものとなった。イングランド王エドワード3世の母はシャルル4世の妹であり、(ゲーム上の用語で言うなら)準サリカ系の継承法では十分エドワード3世はフランス王位継承の有力候補だった。が、一度はフィリップの継承に異を唱えたエドワードも、大陸諸侯の支持が得られなかったことで、ギュイエンヌ公としてフランス王フィリップ6世に忠誠を誓った。
この他にも英仏間にはフランドルの領有問題やスコットランドの王位を巡る問題があり、緊張は高まっていた。
ついに1337年、エドワード3世はフィリップ6世の王位を否定して自らがフランス王であると宣言、ここに戦争が始まった。

黒死病

日本語でペストと黒死病はほぼ同義語でペスト菌(Yersinia pestis)によって引き起こされる特定の病気を指す。が、例えば英語ではplagueにせよpestilenceにせよpestにせよ、「伝染病」とか「疫病」とかを指す普通名詞としても使われる語であり*1、つまりはそれだけ恐怖の対象であったと言える。
古来からこの名で呼ばれる病気の流行は歴史に記録されているが、実際にそれがペスト菌によって引き起こされた病気であったのか、それとも他の伝染病であったのかは確定していない。
いずれにせよ歴史に残る最大の黒死病の流行は1347年のヨーロッパで始まった。この時の流行の原因となった菌は、モンゴル軍の移動によって中央アジア方面から黒海沿岸に現れたと推測されている。その後、コンスタンティノープルを経由してシチリア島や南イタリア、マルセイユなどの地中海沿岸へと広がり、そこから翌年の1348年以降にさらに内陸部へと広がっていった。最終的には地中海から遠く離れたスカンジナビアやロシアにも疫病は到達している。以後も下火になったり、再度流行したりといったことを繰り返している。本当の原因も有効な対策も治療法も一切が不明な病気の流行によって、社会は大きく変質した。

1347年から1370年までの三回の大流行によって、当時のヨーロッパの人口の三分の一が失われたと言われている。
人口減少は直接的には二つの現象を生んだ。労働人口の減少と、食糧需要の減少である。このため労働者への給料が上がり、食品価格は下落した。食品とはまずは農産物のことであり、農村を支配する小領主達の収入が減少した。一方で農民を初めとする「働く者」の地位は向上した。中世のヨーロッパを特徴づける封建制の崩壊が始まったのである。

オスマン帝国

トルコもしくはテュルクと呼ばれる人々は、もともとはユーラシア大陸中央部の広大な草原地帯で遊牧生活を営んでいた。その後、イスラム教が拡大すると、改宗したトゥルクマン(トルクメン、Turkmen)と総称されるテュルク系の人々がイスラム帝国の担い手として歴史に登場してくる。
トルクメンの族長の一人にセルジュークという名のものがおり、その孫トゥグリル・ベクがセルジューク朝を建てている*2。セルジューク朝の長はアッバース家のカリフから「スルタン」の位を与えられ、政治を行った。
この時代にアナトリア地方にトゥルクマンが多く移住して定着した。彼らはセルジューク朝の分家による地方政権、ルーム・セルジューク朝に従っていたが、1243年にルーム・セルジュークはモンゴル軍に敗れ、衰退していく。
中央の統制が衰えたことでアナトリアは群雄割拠の地となる。その中の族長ないしは領主の一人にオスマン・ベイというものがおり、彼は1299年に自立し、オスマン朝を開いた。
オスマンの子、オルハンは1326年に即位するとビザンツ帝国などと戦って勢力を拡大、アジアのみならずヨーロッパ側にまで領土を広げた。三代目となるムラト1世の時代には要衝アドリアノープルを占領して首都とし、バルカン半島のキリスト教国を大いに破って勢力下に置いた。
オスマン朝は次代のバヤジット1世の時代にティムールに完敗しているものの、まもなく再興を果たし、やがて1453年に「征服者」メフメト2世がコンスタンティノープルを占領してビザンツを滅ぼし、欧亜にまたがる大帝国を築くことになる。


*1 このため「ペスト」のことを誤解の余地なく指示したい場合にはbubonic plague等と表記する
*2 セルジューク朝はかつては「セルジューク・トルコ」とも呼ばれていた。が、実体は単なるイスラム帝国であり、テュルク人国家でもないので、正確を欠く呼称と見なされるようになった

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Last-modified: 2008-07-28 (月) 02:12:36 (3407d)