概説  十字軍とサラディン

イスラムの反撃

 十字軍国家が聖地地方を制圧してからすでに一世紀近くが流れていた。当初は分裂状態につけ込まれる形でキリスト教勢の侵攻を許した在地イスラーム勢力も、シリアのイマード・アッディーン・ザンギーの登場によって反撃に転じていた。1147年に開始された第二回十字軍も失敗し、結果的にイスラム側を勢いづけた。
 ザンギーの子ヌール・アッディーンはエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国といった十字軍国家と戦い、ダマスカスを支配し、「敵の敵」たるエジプトの安定化のために武将シール・クーフを派遣した。
 シリア軍にはシール・クーフの甥のサラーフ・アッディーンという若者が加わっていた。彼は後に西欧世界でサラディンと呼ばれることになる。
 1169年、31歳のサラディンは叔父の死によってシリア軍の指揮権を得、さらにファーティマ朝の宰相となってエジプト全土を掌握、アイユーブ朝を創始した。主家との関係は悪化したが、1174年にヌール・アッディーンの死によって対決は回避され、かえってアイユーブ朝の勢力はシリアにまで広がった。
 エジプトをスンニ派政権の元に取り戻し、シリア各地の分裂状況を収めて軍事力の再編に成功したサラディンは、1187年に満を持してエルサレム王国との対決に臨む。7月に行われたヒッティーンの戦いでキリスト教勢は完敗し、王をはじめとする多数が捕虜となった。イスラム勢は残るキリスト教徒側の拠点を一掃し、10月にはエルサレムも陥落した。
 聖地がキリスト教徒の手を離れたことは大きな衝撃をもって受け止められた。時の教皇グレゴリウス8世が十字軍遠征を呼びかけ、第三回十字軍が編成されることとなる。

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第三回十字軍

 グレゴリウス8世の呼びかけによって召集された十字軍は、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、ドイツ王(神聖ローマ皇帝)フリードリヒ1世という当時の西欧でも最有力な国王たちが参加した空前の物となった。
 1189年から開始された遠征では、まずフリードリヒ率いるドイツ勢が陸路聖地へと向かった。が、ビザンツ帝国の非協力に足を取られたドイツ勢は、アナトリアを転戦中にフリードリヒを溺死という形で失い(1190年6月)、事実上解散する。
 フィリップ2世とリチャード1世はいずれも海路で(ただし、不仲のため別々に)聖地に向かった。途中、リチャード1世がシチリアでついかっとなってメッシーナを占領したり、むしゃくしゃしたのでキプロス島を占領したりしつつ、英仏両軍はドイツ勢の残党と合流。港湾都市アッコ(アッカー)を攻め、1191年7月にこれを降した。
 だが、軍事的成功にもかかわらず、リチャード1世の尊大な振る舞いはオーストリア公レオポルト5世を敵に回し、さらにもとより不仲のフランス王フィリップ2世も帰国することとなった。
 が、結果的に指揮権が統一されたのが幸いしたのか、リチャード1世はサラディンと互角以上に戦い、大いにその武名を轟かせた。とはいうものの、サラディンもエルサレムの防備を固めてこれをよく守り、軍の疲弊や本国情勢の不穏などによってリチャード1世も戦争の継続は難しくなっていた。
 1192年9月、リチャード1世とサラディンの間に休戦協定が結ばれた。沿岸部の諸都市の支配権をエルサレム王国に与え、エルサレムはイスラム支配に留まるがキリスト教徒の巡礼を認めるという形で妥結が図られ、十字軍は終了した。

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その後

 十字軍との戦いで命をすり減らしたサラディンは、半年後の1193年3月にダマスカスで病没。諸子による分割相続のため主導権争いが起きたが、最終的にサラディンの弟アーディルがスルタンとなり、対外協調と殖産に務めてエジプトに繁栄をもたらし、第五回十字軍の襲来まで続く平和を守った。
 帰国したフランス王フィリップは、イングランド王弟ジョンや神聖ローマ皇帝ハインリヒと連携してリチャード包囲網を構築する。
 そのリチャードは帰国の途上、敵対関係にあった(というか敵に回した)オーストリア公レオポルトによって虜囚の憂き目にあう。皇帝に引き渡されたリチャードは莫大な身代金と引き替えに解放されて帰国すると、ジョンを降し、大陸を舞台にフィリップと戦いを繰り広げ、1199年に矢疵が元で亡くなった。後を継いだジョン王はフィリップとの戦いに敗れ、大陸領土の大半を喪失した。
 フィリップ2世はその後も神聖ローマ皇帝やフランドル伯らを破り、アルビジョア十字軍に乗じて南部フランスを制圧し、以後のフランス王国隆盛の礎を築いて1223年に没した。「尊厳王(オーギュスト)」の名はローマ帝国初代皇帝アウグストゥスに倣ったものである。

目次

クルセイダーキングス<十字軍の時代>

ビザンツ帝国

すでに元老院と市民の支持の上に成り立つというローマ帝国の伝統は失われ、ペルシャや中東の影響で専制君主国となっていた。そのため暗愚な君主の即位で内紛が起き、国威が失われ、マヌエル1世コムネノス(在1143年-1180年)のような名君の登場によって持ち直すという状況が繰り返されていた。

1081年の第1回十字軍はビザンツ皇帝の要請に西欧君主が応じるという形で行われ、トルコ人勢力と拮抗していたが、12世紀には明らかに劣勢になっていた。

ラテン帝国

1204年に行われた第4回十字軍はヴェネチア共和国の主導により、矛先がコンスタンティノポリスに向けられた。ビザンツ帝国に代わって建てられたラテン帝国は最終的に教皇も承認したことで、十字軍自体の正当性に傷が付くことになったが、ビザンツ帝国もこれによって急速に衰えた。

ニカイア、トレビゾント、ブルガリアなどビザンツ帝国の残党と西欧貴族主導の独立勢力が割拠していたが、内紛の果てに1261年、ニカイア帝国がラテン帝国を滅ぼし、再びビザンツ帝国が復活した。復活と同年には摂政であったパレオロゴス家が帝位を簒奪し、1453年の滅亡まで帝位を維持した。

再び過去の勢力を取り戻すことはなく、西欧やローマ教会との対立も続いたが、文化的には繁栄し、ビザンティン文化は西欧だけでなく中東、東アジアまで伝えられた。

1187年の中東

セルジューク朝の衰退

一時は中東全域を席巻し、ビザンチウムにまで迫ったセルジューク朝だったが、その衰退は早かった。継承法が不明瞭で、しかも国土をセルジューク家という家族のものという考え方を持っていたため、王族が各地に小王朝を建てていったのである。12世紀初めには、セルジューク朝はルーム・セルジューク、シリアのセルジューク、イラクのセルジューク、キルマーンのセルジュークの四つに分裂していった。
さらに、スルタンが幼い場合には、大諸侯がアターベク(父なる諸侯)という称号を与えられ、スルタンの代わりに政治を見るという慣例ができあがり、各地に独立したアターベク政権が発生。しだいにセルジューク諸王朝はアターベク政権に取って代わられることになっていく。

ザンギー朝と十字軍国家

アターベク政権のなかでも、イラク北部に発生したザンギー朝は、十字軍諸国への攻撃を頻繁に行った。十字軍諸国はセルジューク朝の混乱を利用し、アターベク政権と和戦を繰り返して生き残りを図っていた。
ザンギー朝は十字軍諸国との戦争をイスラム教徒のキリスト教徒に対する聖戦(ジハード)と位置づけ、十字軍諸国やそれに味方するアターベク政権を激しく攻撃。1144年には十字軍諸国のひとつ、アレッポ伯国を滅亡に追い込んだ。これに危機感を覚えた西欧が召集した第2回十字軍も、ザンギー朝に撃退されている。

アイユーブ朝の発生

アイユーブ家はクルド出身の軍人の家柄で、イラク北部のティクリットを拠点にザンギー朝に仕えた。ザンギー朝はアレッポ征服直後にモスルのザンギー朝とシリアのザンギー朝に分裂したのだが、アイユーブ家はシリアのザンギー朝に仕えた。
シリアのザンギー朝はエジプトのファティマ朝が政治的混乱に陥っているのにつけ込み、1164年にアイユーブ家のシールクーフをエジプトに遠征させた。シールクーフはカイロを征服し、追放されていたファティマ朝の宰相シャーワルを再び宰相の座につけた。
1168年、ファティマ朝のカリフの要請を受けたシールクーフはシャーワルを攻撃して処刑し、自ら宰相の座に着いた。シールクーフはその数週間後に急死したため、シールクーフの甥のサラディン(サラーフ・アッディーン)が宰相の座に着いた。
サラディンはファティマ朝のカリフを廃止し、アッバース朝のカリフの権威を認めるという形をとった。ここにエジプトを200年支配したシーア派の王朝は滅亡した。

サラディンのエルサレム攻撃

エジプト支配を確立したサラディンは、更にザンギー朝に取って代わることを目指してシリアへと遠征。1183年にはシリアのザンギー朝を滅ぼした(モスルのザンギー朝がサラディンに従うのは1186年)。
サラディンは、次の目標を十字軍諸国に定め、聖戦を宣言した。1184年7月、エルサレム王ギーとヒッテーンで戦い、勝利。エルサレムはキリスト教徒の安全保障を条件に降伏し、この条件を守ったサラディンは敵味方から賞賛された。

1187年以降の中東

アイユーブ朝の崩壊

サラディンはエルサレム奪還を目指した第3回十字軍を撃退し、1193年にダマスクスで死去した。
サラディンの死後、アイユーブ朝は親族によって分割され、十字軍諸国も含めて複雑に和戦を繰り返した。つまり、サラディン以前の状態に戻ったのであった。
エジプトのアイユーブ朝は、1250年、十字軍との奮戦にもかかわらず冷遇されたトルコ系奴隷軍人(マムルーク)のクーデターによって滅ぼされた。シリアのアイユーブ朝とアッバース朝のカリフはこのクーデターに反対したが、アッバース朝は1258年に、そしてシリアのアイユーブ朝は1260年に、モンゴル人によって滅ぼされた。

モンゴル人の侵入

1218年、オトラルという街で、モンゴルのチンギス・ハーンが派遣した使節が虐殺された。これをきっかけにはじまったモンゴル軍の西アジア遠征は、セルジューク朝に代わってイラン高原の覇者となっていたホラズムを瞬く間に滅ぼした。最後のホラズムのシャーがディヤルバクルで殺されるのは1231年であるから、わずか13年でトルキスタンからイランまでが征服されたことになる。
モンゴルの遠征は1253年に再開された。この第二次遠征でモンゴル人は、まず十字軍国家やセルジューク朝などに恐怖を与えていたシリアのニザール派教団を壊滅に追い込んだ。ニザール派は別名アサシン派といい、シーア派の過激派で、暗殺という手段で反対する要人を殺害して恐れられていた。「暗殺者」(assasin)という英語はこれに由来する。
次にモンゴル人は、1258年にバグダッドを陥落させ、アッバース朝のカリフを殺害した。これによってスンニ派の精神的な支柱であったアッバース朝は滅亡する。(ただし、アッバース朝の一族がエジプトのマムルーク王朝に推戴されるので、正確にはアッバース朝は1517年まで続く。)
更にモンゴル人はエジプトの征服をも目指したが、1260年、アイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝に完敗を喫し、失敗した。この戦いは史上初めてモンゴル人が野戦で完敗した戦いであった。
以後モンゴル人はイラン高原を中心にイル汗国を建て、何度もエジプトを狙うのであるが、結局成功しなかった。マムルーク朝はモンゴルの戦い方をよく研究しており、容易にうち破れなかった。また北のキプチャク汗国がイル汗国のアッバース朝征服を非難して南下を繰り返した。キプチャク汗国はイル汗国と同じモンゴル系であったが、既にイスラム教に改宗していたのである。

1187年の西欧

ゲルフとギベリンの党争

1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世が死去した。ハインリヒ5世には男子がなかったので、これでザーリアー朝は断絶した。ハインリヒ5世の姉の子供にあたるシュタウフェン家のシュヴァーベン公フリードリヒは自分こそ次期国王だと考えていたようだが、次のドイツ王に選ばれたのはザクセン公のロータル・フォン・ズップリンブルクであった。
息子のないロータルは不満を持つシュタウフェン家に対抗するためもあって、ヴェルフェン家のバイエルン公ハインリヒ傲岸公に娘を与え、自らの後継者とした。しかし1137年にロータルが死去すると、次期国王に選ばれたのはハインリヒ傲岸公ではなくフリードリヒの弟のシュヴァーベン公コンラートだった。
ドイツ王になったシュタウフェン家とドイツ王になれなかったがザクセン公とバイエルン公を兼ねたヴェルフェン家の争いは、イタリアにも飛び火した。イタリアでは都市市民たちがこのころから自立を強めており、彼らは権力を求め、ドイツ王や教皇と結んで党争を繰り返した。
イタリアではシュタウフェン派を、シュタウフェン家の所領にちなんでギベリンといい、教皇派、ヴェルフェン(Welfen)派をゲルフ(Gelf)といった。ドイツ語のWをイタリア語ではGで読むためである。
1152年にドイツ王になったフリードリヒ1世バルバロッサは、イタリアに遠征を繰り返してゲルフ派の諸都市を討伐した。そしてイタリア遠征に参加しなかったヴェルフェン家のハインリヒ獅子公を討伐し、教皇さえも屈服させた。そこにエルサレムがサラディンによって奪われたという報が届き、フリードリヒ1世バルバロッサは十字軍を決意したのであった。

プランタジネット朝とカペー朝

フランスでは、各地方の伯や公があたかも独立国家のような権力を確立していた。なかでも強力だったのが、北フランスのノルマンディ公(兼イングランド王)、北西フランスのブルターニュ公、西フランスのアンジュー伯、南西フランスのアキテーヌ公、南フランスのプロヴァンス伯などであった。彼らは名目上はフランス王の臣下であったが、ほとんど独立国家といって良かった。
この混乱期に、結婚政策と戦争によってフランスの半分を支配するまでになるのが、アンジュー伯のプランタジネット家である。
1133年に生まれたプランタジネット家のアンリ(イングランド王ヘンリー2世)は、父からアンジューを、母方の祖父からノルマンディとイングランドを相続した。1152年にはフランスの王妃だったエレアノール・ダキテーヌが一方的に夫に離縁を通告し、ヘンリー2世と結婚した。これによってヘンリー2世は妻の父からアキテーヌを相続した。更に1166年、ヘンリー2世は三男ジョフロアとブルターニュ公の娘との結婚を強行し、ブルターニュをも支配下に置いた。
かくしてヘンリー2世は、フランス王の臣下でありながら王冠を持ち、しかもフランスの半分を支配するという奇妙な状況になったのだった。

1187年以降の西欧

ブーヴィーヌの戦い

ドイツとイタリアにおけるギベリンとゲルフの争い、フランスとイングランドにおけるカペー朝とプランタジネット朝の争いの双方に決着を付けたのが、1214年のブーヴィーヌの戦いであった。
ヴェルフェン家の皇帝オットーとイングランドのジョン欠地王が、シュタウフェン家の皇帝フリードリヒ2世とフランス王フィリップ2世オーギュストと戦って行われた戦争で、オットーとジョンはまずフランスを挟み撃ちにしようとして南北からフランスに侵攻し、ともにフランス軍に敗北したのであった。ブーヴィーヌはフィリップ2世がオットー軍を破った戦場である。
以後、ザクセン公領は西のヴェストファーレン公領、中央のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領、東のザクセン(マイセン)公領に分割され、ヴェルフェン家はそのうちのひとつ、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公として生きながらえることとなった。後のハノーヴァー選帝侯である。
イングランドでは、ジョン欠地王が貴族との妥協を強いられた。史上名高いマグナ・カルタである。これで、中世ヨーロッパでもまれに見る強力な王であったイングランド王は、貴族たちに権力を制限されるようになった。
フランスはこの戦いの前に奪っていたアンジューとノルマンディの領有を確実にし、さらにその後プロヴァンスやトゥールーズなどの諸侯にも力を及ぼすようになっていった。

モンゴル人の侵入

モンゴル人がロシアに侵入したのは1223年のことであったが、本格的な侵攻が始まるのは1237年のことである。
ロシアは伝説によれば海の向こうから来たというリューリクの子孫がキエフから支配していたが、1160年頃にはトルコ系遊牧民族のクマン人の襲撃を受け、キエフの求心力は低下、各地の公が独立していた。それで、モンゴル人が侵入してきたとき、ロシアの公たちは各個撃破されていき、モンゴルの属国として何とか生きながらえたのであった。これがいわゆる「タタールのくびき」である。
ロシアを征服したモンゴル人は、1241年にはポーランドに入り、レグニツァ(ワールシュタット)でシュレジエン公のヘンリク敬虔公を戦死させた。ヘンリク敬虔公は分裂状態にあったポーランドの統合を目指していたのだが、それも水泡に帰した。
更にモンゴル軍はハンガリーに入り、モヒの戦いでハンガリー王ベーラ4世を破った。そしてベーラ4世がなんとかダルマチアに逃れたところで、オゴダイ・ハーン死去の知らせを受け、東方へと去っていった。
このため、ポーランドとハンガリーはモンゴルの属国となることを免れたが、ロシアの諸侯はキプチャク汗国の属国として、カスピ海北岸のバトゥ・サライや、モンゴル帝国の首都カラコルムに出仕することを義務づけられることになる。

大空位時代

ブーヴィーヌの戦いで戦わずして勝利した皇帝フリードリヒ2世は、ヴェルフェン家を押さえ、ドイツに支配権を確立した。しかし彼はシチリアというイスラム教徒、正教徒が入り交じる王国で育ったこともあって、異教徒に寛容で、十字軍にあまり興味を示さず、教皇と対立した。破門されて仕方なく行った十字軍では、アイユーブ朝と交渉を重ね、戦わずしてエルサレムを譲り受け、教皇の怒りを買った。
そのフリードリヒ2世が1250年に死去し、後を継いだコンラート4世も1254年に亡くなると、シュタウフェン家は事実上断絶。フリードリヒとの対立のために教皇が擁立していたホラントのヴィルヘルムも1256年に死去した。
1257年、ドイツの諸侯は選挙を行い、新国王を選んだ。ケルン大司教率いるグループはイングランド王の弟に当たるコーンウォールのリチャードを、トリーア大司教率いるグループはカスティーリャ王のアルフォンソ10世を選出。ドイツは2人の国王が相争う事態となった。
だが実際には、アルフォンソ10世は一度もドイツに来ることはなく、コーンウォールのリチャードも数回しかドイツに足を踏み入れなかった。
ドイツ王は慣例として皇帝になることができたのだが、それはドイツを安定させ、軍を率いてイタリアに入り、ローマで戴冠して初めて可能なこと。ドイツにほとんど権力を持っていなかったアルフォンソ10世もコーンウォールのリチャードも、もちろん皇帝になることはできなかった。
このため、フリードリヒ2世が死んだ1250年から、ハインリヒ7世が1312年に皇帝に戴冠されるまで、皇帝不在の時代が続いた。この時代、それも特にドイツ王が全く権力を持っていなかった1256年~1273年を大空位時代と呼ぶ。
ドイツは乱れ、国王=皇帝の権力は地に落ちた。ふつう、オットー大帝が皇帝になって始まった中世のローマ帝国を「神聖ローマ帝国」というが、わざわざ国名に「神聖な」という言葉が付けられるようになったのはこの頃。王は必死になって、我こそは神聖なりと主張しなければならなかったのである。


宗教騎士団

十字軍の盛り上がりと中世的な騎士観の成立を背景にこのころできあがったのが、宗教騎士団(騎士修道会)である。彼らは戒律に沿った厳格な生活を営み、エルサレムへの巡礼を助け、時には異教徒と戦った。宗教騎士団を支えたメンバーの多くは、領地にいても食い扶持のないカトリック貴族の次、三男であった。彼らの実家からの支援(騎士団員は原則的に独身で、彼らの私物は死後に騎士団に納められた)、市井の人々の喜捨、およびおよび異教徒から奪った財産(平時には異教徒との交易の中継など)によって、宗教騎士団は大きな富を築いた。ここに挙げたもの以外にCKのい時代に結成された騎士団にはフランスの金羊毛騎士団、イングランドのガーター騎士団などもある。

テンプル騎士団

最も古い騎士団は、1119年に設立されたテンプル(聖堂)騎士団である。テンプルというのはその本部が置かれたエルサレムのソロモンの神殿に由来する。テンプル騎士団は1140年に本拠をパリに移し、1291年のエルサレム王国滅亡後はキプロスを根拠地に異端との戦いを続けた。
しかし、喜捨などによって、一時期はパリの4分の1を所有したと言われるほどの富を築いたため、フランス王の怒りを買った。1314年、テンプル騎士団は、男色や偶像崇拝、不正蓄財の罪などで解散させられた。

聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団、マルタ騎士団)

テンプル騎士団と同時期にエルサレムで結成された騎士団に、聖ヨハネ騎士団がある。戦争で傷ついた人たちのための病院に由来するので、ホスピタル騎士団、病院騎士団とも言う。聖ヨハネ騎士団はエルサレム王国滅亡後、1310年にロードス島を占拠し、ロードス騎士団とも呼ばれた。
聖ヨハネ騎士団は長く続いたオスマン朝との戦争の末、1522年にロードス島を追われ、マルタ島に拠点を移動した。このためマルタ騎士団とも呼ぶ。1798年にエジプト遠征中のナポレオン軍に攻撃されて奪われるまで、ここを拠点とした。現在はローマ市内に拠点を置き、慈善活動を行っている。

ドイツ騎士団(チュートン騎士団)

テンプル、聖ヨハネとならび三大騎士団と呼ばれるのが、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)である。ドイツ騎士団はテンプルや聖ヨハネと違い、第3回十字軍の際に結成された。だが、喜捨によって富を築いていたという点では、テンプルや聖ヨハネと同じである。
チュートンとは古代にドイツ地方に居住していたテウトニ族から由来し、ラテン人から見たドイツ(ゲルマン)人の通称でもあった。
ドイツ騎士団は1225年、ポーランドの大公コンラートの要請を受け、バルト地方に進出した。異教徒のプルス人の攻撃に悩まされたコンラートは、騎士団に援軍を求めたのだが、騎士団はそのままプルス人の土地を占領し、ここに独立国家を造りあげたのである。いわゆる北方十字軍(東方十字軍とも)である。当時、領土の細分化によって生活が立ちゆかなくなったり相続する領土自体がすでに失われていた貴族の子弟が多数参加した。
プルス人という敵を倒すためにもっと強大な敵を呼んでしまったコンラートの援軍要請は、ポーランド史上最悪の失策とすら呼ばれている。ポーランドはドイツ騎士団にかなり悩まされた。だが14世紀にポーランドとリトアニアが同盟するようになって、事態はポーランド有利に傾いていく。リトアニアはヨーロッパ最後の異教大国で、ドイツ騎士団の激しい攻撃を受けていた。それでカトリックに改宗するとともにポーランド王と姻戚関係を結び、ドイツ騎士団に対抗したのである。
1386年にリトアニア大公ヤゲロがポーランド王を兼ねるにいたり、ポーランド=リトアニアとドイツ騎士団の関係は逆転した。1525年、騎士団長アルブレヒトはドイツ騎士団をポーランド王の臣下であるプロイセン公国に改編することに同意し、騎士団は消滅した。
なお、プロイセン公国は1618年、アルブレヒトの息子のアルブレヒト・フリードリヒの断絶によって公家が絶え、アルブレヒトの父の兄の子孫に当たるブランデンブルク辺境伯に相続された。このブランデンブルク辺境伯=プロイセン公がのちのプロイセン王、ドイツ皇帝になる。


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Last-modified: 2011-01-11 (火) 17:13:24 (2443d)