クルセイダーキングス<十字軍の時代>

1066年 欧州中東情勢

全体の歴史01.jpg


宗教対立

1066年現在、世界は大きく、キリスト教カトリック、キリスト教ギリシャ正教、そしてイスラム教(スンニ派/シーア派)の三つに分かれている。
現状では、カトリックとギリシャ正教はキリスト教の宗主の座を巡り争っているが、イスラムを敵視している姿勢に変わりはない。

後年、キリスト教の総本山(と一般的に言われる)カトリックのローマも、この時点ではまだ、ギリシャ正教と激しい主導権争いの渦中にあった。
こののち、一時はカトリックを凌ぐ勢いをみせていたギリシャ正教も、後ろ盾であったビザンツ帝国がイスラム諸勢力との戦いに敗れ滅亡したため、その権勢も大きく後退することになる。ローマ・カトリックは、第一次十字軍においてエルサレムを奪還し、存在感を大いに見せつけギリシャ正教を圧倒したが、度重なる十字軍出兵により欧州が疲弊したため、その権威は縮小することになる。

宗教権威とカノッサの屈辱

1066年現在において、宗教の力は絶大であった。1077年におきた「カノッサの屈辱」はそれを最も端的に表している。
1077年、ドイツ国王(神聖ローマ帝国皇帝)ハインリヒ4世がローマ教皇に破門を解いてもらうべく、ローマ教皇グレゴリウス7世にのいたカノッサ城へ向かい、冬の最中に裸足で許しを乞うた事件である。
事の発端は、ローマ教皇グレゴリウス7世が司教の任命をローマ教皇が行うと神聖ローマ帝国に通達したことにある。これに対しローマ皇帝ハインリヒ4世は猛反発し「司教を任命するのは教皇ではなく皇帝である」と宣言し教皇の廃位を決定した。この宣言をカトリックに対する挑戦と受け止めたグレゴリウス7世は直ちに皇帝ハインリヒ4世を破門する。驚いたのは皇帝ハインリヒ4世よりも、その臣下達であった。ドイツ(神聖ローマ帝国)諸侯は皇帝ハインリヒ4世の破門がとかれない場合は、廃位して新たな王を立てることを決定する。臣下達が総て敵に回り、皇帝は愕然とした。この時期、ハインリヒ4世に対する敵対勢力も少なくはなく、彼らが先導したのも確かだが、そもそも神聖ローマ帝国の始まりである東フランク、フランク王国(西ローマ帝国)はカトリックを後援すべく立てられた帝国である。神聖ローマ帝国の「神聖」とは「カトリック」「ローマ教皇」に対するものなのである。すなわちハンリヒ4世の宣言は神聖ローマ帝国の存在そのものを否定したといってよく、支持が得られないのも道理であった。そのため、ハインリヒ4世は教皇に破門を解いてもらうべくカノッサへと向かうことをよぎなくされた。
これを「カノッサへの道」(和訳「カノッサの屈辱」)と呼ばれた。
この事件の後「例え皇帝であろうとも教皇の許可なくば何もできない」という事実を世間に知らしめ、宗教権威の巨大さを改めて認識させることとなった。

破門を解かれたハンリヒ4世は、その後司教の叙任権をめぐって再び教皇グレゴリウス7世と対立する。この時は軍勢を率いてローマを囲み教皇グレゴリウス7世をローマより放逐した。

なお「司教就任の決定は、教皇と皇帝どちらにあるのか?」という問題は、
1122年、ウォルムスにおいて協定が結ばれ「教皇に就任権がある」ということで決着した。

イベリア半島情勢 -西方の十字軍-

イベリア半島の歴史01.jpg

レコンキスタ<国土回復運動>

レコンキスタとは、異教徒によって占領された土地を奪還しよう!という動きのことである。
具体的には八世紀の初め、イスラムのウマイヤ朝によって支配されたイベリア半島の奪還を目的としていた。そのため、レコンキスタ<国土回復運動>は「西方の十字軍」とも言われている。

1066年現在、既に後ウマイヤ朝は政治的混乱の末崩壊しており、タイファと呼ばれる旧ウマイヤ朝の軍閥が独立して割拠しており統一した行動はとれなくなっていた。

その後、十字軍の活躍によって、イベリア半島のタイファは弱体化を強いられ、キリスト教国に金を払って平和を買うようになる。困り果てたタイファはモロッコのムラービト朝、次いでムワッヒド朝に助けを求めた。ムラービト朝やムワッヒド朝は一時的にレコンキスタを食い止めはしたものの、後にそれらの干渉を嫌ったタイファにより再び影響力が排除され、大きな流れを変えることはできなかった。1228年にムワッヒド朝が崩壊すると、アラゴン王国、カスティーリャ王国、ポルトガル王国の軍が南下を開始、イベリア半島の大半の征服に成功した。これによってカスティーリャ王国に臣従して命長らえたナスル朝グラナダ以外の全土がキリスト教徒の支配下に入った。ナスル朝は欧州にイベリア半島を奪還されまいと1492年まで抵抗を続けていたが、スペイン王国(アラゴン王国とカスティーリャ王国が王族の結婚によってスペイン王国として統一されていた)の攻撃を受けて降伏。イベリア半島のイスラム教は掃討された。

  • レオン王国(アストゥリアス王国)
    イスラム教徒によって滅ぼされた西ゴート王国の貴族ペラーヨが718年に、イベリア半島北部の山間部に逃れて建てた王国。初期はアストゥリアス王国と呼ばれたが、914年にレオンに首都を移し、以降はレオン王国と呼ばれた。後には東で勢力を伸ばすカスティーリャが独立し、1037年には逆に併合されてしまう。その後はカスティーリャ王家の分家が受け取る相続財産として扱われるようになり、本家との間で分離と再統合を繰り返したが、最終的に1230年には両国は完全に統合された。
  • スペイン辺境伯
    イベリア半島を征服した勢いを駆ってフランスに侵攻したウマイヤ朝を撃退したフランク王国が、半島の北東部を少しずつ奪い取って作り上げた辺境伯領。フランク王国が分裂すると混乱したが、バルセロナの伯爵が統一した。バルセロナ伯は1164年にアラゴン王国を併合し、スペイン東部のレコンキスタを担う勢力に成長する。
  • ナバラ王国
    ウマイヤ朝の公認のもとヒメネス家が作り上げた王国で、次第にウマイヤ朝から独立してレコンキスタを担うようになった。1004年にナバラ王になったサンチョ3世大王は、カスティーリャ伯から妻を迎え、レオン王国から次男の后を迎え、バルセロナ伯をも従えて、イベリア半島のキリスト教国を束ねた。1031年にウマイヤ朝が内紛で崩壊すると、これにつけ込んで南下に成功した。しかし1035年にサンチョ大王が死去すると、王国は四人の子供によって分割されてしまった。(以下の系図を参照。)
    ナバラ王国はその後、百年戦争、カスチラの内乱と立て続けに負け側について領土を削られ、1512年に南側をスペインに、1572年に北側をフランスに併合され、消滅した。
    ヒメネス家系図.jpg
  • カスティーリャ王国
    もともとはレオン王国の一部で、イスラム教徒の攻撃に備えてたくさんの城(カスチリョ、キャッスルと同語源)があったことに由来する。もともとは伯爵領だったが、1029年に母方の叔父からカスティーリャ伯位を継承していたフェルナンド(ナバラ王サンチョ大王の次男)が、1038年に死去した妻の兄からレオン王位を継承した際に王国に格上げされた。1065年にフェルナンド大王が死ぬと、長男のサンチョが継承。以後、次男アルフォンソのレオン王国と分割相続・併合を繰り返したが、1230年以降両国は常に同じ王を戴くことになった(レオン=カスティーリャ王国)。
  • ガリシア王国(1065年~1071年)
    イベリア半島の北西部。レオン・カスチラのフェルナンド大王が1065年に死んだとき、三男ガルシアに与えられた。1071年にガルシアは兄サンチョの攻撃を受け亡命し、修道院に隠棲する。領土はカスティーリャ王国に併合されて消滅した。
  • アラゴン王国
    ナバラ王サンチョ大王の死後、その庶子ラミロに与えられた王国。建国当初からカタルーニャのバルセロナ伯と婚姻を繰り返して関係を深め、1164年にアラゴン・ヒメノ家の直系が絶えたことで両家が統合された。レコンキスタを進めると同時に、地中海方面に勢力を伸ばし、1282年にはシチリアの王位をも獲得した。
  • ポルトガル王国
    ガリシア南部のポルトゥカーレ伯領、コインブラ伯領を母胎に発生した王国。伯家の断絶した両伯領を、1097年にレオン・カスチラ王アルフォンソ6世はブルゴーニュ公家のエンリケ(アンリ)に委ねたのだが、1139年、エンリケの息子のアフォンソは早くもポルトガル王を称し、アルフォンソ6世の孫のアルフォンソ7世に独立戦争を挑んだ。結局1143年、アルフォンソ7世はポルトガルの独立を承認。1179年には教皇の承認も得て完全な独立を達成した。
  • 後ウマイヤ朝(756年~1031年)
    750年のウマイヤ朝の滅亡を受け、その生き残りがスペイン(イスラム教徒の言い方で言えばアル・アンダルス)に建てた王朝。当初はカリフではなくアミール(将軍、あるいは総督)という称号で統治を行ったが、アフリカでシーア派のファティマ朝が勢力を拡大すると、これに対抗するためにカリフを称した。10世紀の末頃からカリフは傀儡となり、内紛の末に1031年に自壊した。
  • ムラービト朝(アルモラヴィド朝、1056年~1147年)
    スンニによってモロッコの南に建国された新興国家。同じイスラム教徒だがシーア派に属するファティマ朝とは対立関係にあった。聖戦意識が強く、イスラム系の群小王朝の要請を受けて盛んにイベリア半島に援軍を送った。しかし度重なる遠征のうちにイベリア半島の魅力に気づいたらしく、1087年、同じイスラム教徒の諸侯に牙をむき、半島南部を征服した。
    しかしその後は次第に怠惰な生活におぼれ、当初の強力な軍隊は失われた。1130年にモロッコでムワッヒド朝が兵を挙げると、ムワッヒド朝とキリスト教国の挟み撃ちにあって滅亡した。
  • ムワッヒド朝(アルモハード朝、1130年~1225年頃)
    ムラービト朝の堕落を非難し、宗教改革を掲げて成立した王朝。1146年にはイベリア半島に上陸し、ムラービト朝から独立していたスペインのイスラム系群小王朝を征服した。しかし、1195年には本拠地モロッコでマリーン朝が成立、1212年に十字軍に敗北すると一気に崩壊した。ムワッヒド朝の崩壊後に発生した群小王朝は、キリスト教諸国に各個撃破され、カスチラに臣従したナスル朝を除いてすべて滅亡した。
  • ナスル朝(グラナダ)(1232年~1492年)
    ムワッヒド朝が滅亡し、諸侯が乱雑するイベリア半島でハエンの小国であったイブン・アル・アフマルが、グラナダを占領して建国した。イベリア半島最後のイスラム教国として、アフリカのイスラム諸国の援助を受け、キリスト教圏と対抗していた。その傍らで、地方の反乱にはキリスト教国の力を利用するなど外交にたけた国家でもあった。それを可能にしたのは、宮殿と都市を極限にまで城塞化した難攻不落のアルハンブラ要塞の存在があったからだとも言われている。

1469年、レオン・カスチラの王女イサベルとアラゴンの王子フェルナンドが結婚した。イサベルは1474年にレオン・カスチラの女王となり、次いでフェルナンドも1479年にアラゴン王となった。これによって三つの王国は一組の夫婦によって支配されることになった。スペイン王国の成立である。
新興国家スペインはイベリア半島最後のイスラム教国、ナスル朝に襲いかかった。1492年、ついにアルハンブラが陥落。かくしてレコンキスタは終結する。
同年、コロンブスが西インド諸島に到達。スペインの拡大はイベリア半島から新大陸へと舞台を移していく。

聖地サンチアゴ・デ・コンポステラ

イベリア半島では古くから、十二使徒のひとり大ヤコブ(サンチアゴ)の崇拝が盛んであった。いつしか、「大ヤコブがイベリア半島への布教を行った」とか、「大ヤコブの死後弟子たちは遺体を神の手に委ねるため、船に乗せて海に流した。船はガリシア地方のどこかに流れ着いた」などといった伝説が生まれた。
9世紀初め、アストゥリアス王国支配下のガリシアで、大ヤコブの墓が発見された。伝説によれば、夜に明るい星が野原の上に輝いているのを見つけたある司祭が、その野原を掘って遺体を発見したという。アストゥリアス王アルフォンソ2世はその野原に聖ヤコブ教会を建てた。教会の周りに町ができ、「サンチアゴ・デ・コンポステラ」と呼ばれた。星の野原の聖ヤコブという意味である。
1071年にセルジューク朝がエルサレムを占領すると、エルサレムへの巡礼ができなくなった。代わりの巡礼地として人々を集めたのが、ローマとサンチアゴ・デ・コンポステラだった。今でもガリシア地方に行くと、サンチアゴ巡礼を行う旅人たちを目にすることができる。

十字軍概要

1095年から1291年までの200年間に9回行われた、カトリック教国による中東侵攻。第一回はイスラム勢力の伸張に手を焼いたビザンツ帝国の求めにカトリック教会と諸侯が応じた形で、エルサレム王国を成立させるなど成功した。第三回十字軍(1187)ではサラディンとリチャード獅子心王の対決があったが、カトリック側は撤退。第四回(1202)では味方であるはずのビザンツ帝国がベネチア共和国勢を中心とした十字軍により一時的に滅亡させられる事態が起きた。第六回(1228)では神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が教皇の意向に背いてイスラム勢力と平和条約を締結。その後も散発的に十字軍は行われたが、実質的な戦果を挙げることはなかった。

北方十字軍と東方十字軍

ドイツ騎士団を中心とした勢力によって現在のバルト三国地方に向かって行われた植民活動が北方十字軍と呼ばれる。異教徒である原住者たちはの多くは虐殺されるか奴隷として連れ去られた。ドイツ騎士団はポーランドなど東欧諸国とも戦ったが、ポーランド王国がカトリックに転向すると、この戦いは単なる領土戦争にすぎなくなった。イスラム勢力の支配下にあったバルカン半島への侵攻など、東欧に向かって行われた侵攻を総称して東方十字軍と言うこともある。

ヨーロッパ簡易歴史

欧州の歴史: 西暦500年~

キリスト教の宗主の座を巡りコンスタンチノープル教会(ギリシア正教)とローマ教皇(カトリック)は対立していたが、ビザンツ帝国の後押しを受けていたコンタンチノープル教会におされていた。
そのためローマ教皇は『西ローマ帝国』の復活を画策。西暦800年フランク王カール大帝を西ローマ帝国皇帝とした。
西洋の歴史01.jpg

欧州の歴史: 西暦800年~

カール大帝の子のルイ敬虔王は817年、長男ロタールにイタリアを、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒにバイエルンを任せた。ところが四男シャルルが生まれ、シャルルの母の実家のヴェルフェン家がシャルルにも領土を要求したことにより、フランク王国は内乱に陥った。内乱の末に生まれたのが、ロタールの子孫の中フランク王国、ルートヴィヒの子孫の東フランク(ドイツ)王国、シャルルの子孫の西フランク(フランス)王国である。中フランク王国はあまりに縦長だったため、北半分はドイツとフランスに併合され、南半分がイタリア王国として残りった。これが現在のイタリア、ドイツ、フランスの原型となった。東西フランク王国に併合された地は「ロタールの王国」の意でロートリンゲン(独)、ロレーヌ(仏)と呼ばれ、後々まで両国の係争地となった。
西洋の歴史02.jpg

欧州の歴史: 西暦1000年~

その後10世紀に入ると、東フランク王国ではカロリング朝の直系子孫が絶えて、諸侯の選挙によって新しく王を戴くことになる。
西暦962年オットー一世はローマ教皇により皇帝を冠されローマ皇帝となるが、帝位は世襲と諸侯たちの選挙という二重基準で行われるようになったため、皇帝の権威は高まらなかった。12世紀頃から東フランク王はドイツ王と呼ばれるようになり、そのドイツ王位と空位となったイタリア王位をローマ皇帝が占め、皇位継承者にはローマ王が与えられる慣習ができた。この東フランク(ドイツ)王国、ロートリンゲン王国、イタリア王国、を統べる帝国は当初ローマ帝国と呼ばれ、13世紀頃から神聖ローマ帝国と名乗るようになった。

西フランク王国でも10世紀の終わりには、カロリング朝の直系は絶え、あらたにカロリング朝の傍系でパリ伯であったユーグ・カペー(西フランク王ロベール1世の孫)が王となり、カペー朝フランク王国が誕生する。この国は後に訛ってフランス王国と呼ばれるようになる。
西洋の歴史03.jpg

海賊王

この時代、ノルマン人の一派のヴィーク人とも呼ばれる海賊、いわゆるバイキングが暴れまわっていたが、当時の封建領主たちは確たる対策もできずにいた。彼らはたびたび北ヨーロッパの沿岸地帯を襲い、時には交易しながら移動していた。

討伐が難しいと判断した西フランク王シャルル三世は臣下に加えることにきめる。
バイキングの首領ロロはシャルル三世の妹と結婚し、ノルマンディー公に封じられた。
ノルマンディー公は配下のバイキングやノルマン人達を次々領地に迎え入れると
一大勢力を築き上げる。
1066年、ノルマンディー公ギョームはグレート・ブリテン島に侵攻し制圧。初代ノルマン朝イングランド王ウィリアム一世となる。

ノルマン人はアイスランドからグリーンランドまで移住し、ついには北米大陸に到達したという伝説もある。またある一派は地中海沿岸を襲撃しつつ中東までたどり着いた。別の一派は東ヨーロッパを南下しビザンツ帝国に仕え、また西方に進みルーシ公国を建てたのもノルマン人であったとも言われる。

イングランド略史

ローマン・ブリトン~ヘプターキー

 グレートブリテン島がヨーロッパ史に組み込まれたのは古代ローマの時代である。ケルト人の住まうこの島に最初に足を踏み入れたローマ人はカエサルだった。本格的なローマの侵攻は紀元43年のクラウディウス帝の時代に行われ、北方(後のスコットランド)を除いた全ブリテン島がローマ支配下に置かれた。
紀元410年、衰退するローマ帝国はブリテン島から撤退。その後、大陸からはゲルマン人であるアングル人、サクソン人、ジュート人などが到来。互いに争いつつも先住のブリトン人を撃破し、ブリテン島の主要部を制圧した。
やがて7世紀頃にはアングロ・サクソン系の七王国(ヘプターキー)と呼ばれる有力国家群が成立する。抗争の末に829年、ウェセックス王国のエグバートがイングランド(アングル人の地の意)の統一に成功する。

北海帝国

 この時期、全欧州的にヴァイキングが活発に活動しており、イングランドにおいてもそれは例外ではなかった。そのうちの、デンマークを根拠とするデーン人たちは9世紀よりブリテン島に繰り返し侵入し、アングロ・サクソン系の王国を圧倒し、各地に居留地を築いた。
 唯一独立を保ったウェセックスはアルフレッド大王(在位871年~899年)の指揮下にデーン人と戦って勢力圏を定め、文化振興に努めてイングランド王国の礎を築いた。
 しかし1013年、デンマーク王スヴェンがイングランドに侵攻してサクソン系王家のエゼルレッド無思慮王から王位を奪う。スヴェンの没後はエゼルレッドが復位したが、スヴェンの子のカヌート大王が侵攻を再開する。クヌーズはイングランドに加えてデンマークとノルウェーの王位も手にし、「北海帝国」とも呼ばれる一大勢力を築き上げた。

エドワード・ザ・コンフェッサー

 クヌートの死後、北海帝国は後継争いによって崩壊した。イングランド王位はクヌートとエマ・オブ・ノルマンディの子ハーデクヌーズ(ハーディカヌート)が保持したが、子を持たなかった。このためハーディカヌートはエゼルレッド無思慮王とエマ・オブ・ノルマンディの子(平たく言えば異父兄弟)であるエドワードを亡命生活から呼び戻し、後継者とした。1043年にハーディカヌートが亡くなるとエドワードはイングランド王として即位した。
 エドワードは幼少時より母の実家のノルマンディの宮廷で長年亡命生活を送っており、ノルマン人に近しく、かつ、修道士的な性格であった。このため実子を持たず、ノルマン人を要職に起用した。これは大諸侯であるウェセックス伯ゴドウィン親子への対抗を意図していたとされる。

ヘイスティングズの戦い

前のイングランド王エドワード告解王(1003~1066)が後継者を残さずに死ぬと、イングランド王位の継承をめぐる争いが勃発した。ウェセックス伯ハロルド・ゴドウィンソン(1022頃~1066)は、他の競争者に先んじて王位を我が物とした。ハロルドは当時イングランド最強の人物と目され、北方の歩兵戦術を熟知し練達の軍隊に支えられていた。

しかし、フランスに強力なライバルがいた。ノルマンディー公ウィリアム(1027~87)である。ウィリアムはエドワード告解王が生前、次のイングランド王に彼を指名していたということを根拠にイングランド王位を要求した。彼は機動、偵察、補給などの戦術に長けた指揮官であった。

両軍は1066年10月14日にイングランド南岸の町ヘイスティングズから北に11キロの地点で相対した。ノルマンディー軍は6000~7000人、槍と剣で武装した騎士、弓と長槍を装備した歩兵で構成されていた。イングランド軍はそれよりもわずかに多く、斧や剣を武器とする歩兵が中心であった。彼らは馬を移動に用いたが、それを騎兵として活用する戦術に疎かったのだ。また、弓兵が不足していた。

イングランド軍は、ロンドンから長躯進軍し14日早朝早くも布陣を完了した。前面になだらかな平地を配し、両翼を川に守られた絶好の地形である。ハロルドの竜の軍旗を見晴らしの良い丘の上に掲げノルマンディー軍の攻撃に備えた。敵に地の利を占められたウィリアムは軍を三つに分け、それをさらに前後三列に配備した。前列が弓兵、中列が重武装の槍兵、後列が騎兵である。

hastings.jpg

朝9時頃、戦いはノルマンディー軍の先攻で始まった。ノルマンディー軍の弓兵はハロルドの軍に矢の雨を降らせた。イングランド軍は、それに対し北方の伝統的な歩兵戦術「盾壁」で対抗した。長大な盾を壁のように並べ、敵の攻撃の一切を無効化しようというのである。ノルマンディー軍の攻撃が効果を上げないと見るや、イングランド軍は高所に陣取った利点を生かし敵に「坂落とし」をかけた。

ノルマンディー軍の前線は崩れた。また、ウィリアム戦死の噂が流れ、彼の援軍であるブルターニュ諸侯たちが戦線を離脱して本国に帰ろうと浮き足立った。自分の健在な姿を見せ、ウィリアムはなんとかこれを押し留めた。この敵の混乱に対し、機動力のない鈍重なイングランドの歩兵は畳み掛けることができなかった。

ウィリアムの軍は反撃を行った。盾壁を崩すために弓兵は騎兵を援護し、騎兵は敵の戦線の破れ目を突くのである。さらに、臨時雇いの一団(偽軍)を動かしイングランド軍に圧力を加えた。この共同作戦によりハロルドの軍は動揺し、混乱した歩兵は各所で寸断、撃破された。イングランド軍はよく耐えていたが、ハロルドの兄弟たちが戦死するとこれを支えることができなくなった。壊走する中ハロルドは顔を射られ、怯んだところを騎士の一隊に切り殺された。

こうして、ヘイスティングズの勝利はウィリアムのものとなった。序盤ハロルドの軍は、盾壁で相手の攻撃をよく防ぎ、得意の戦斧で打撃を与えたが、機動力を持ち合わせない彼の軍は勝利を決定付けることができなかった。一方ウィリアムの軍は、機動力と柔軟性を持ち併せ、各部隊が共同作戦を行えるまでによく訓練されていた。これは、ウィリアムがこの遠征前、ノルマンディーで軍を訓練した成果であった。ウィリアムのこの用意周到さと戦場における臨機応変が、彼に勝利をもたらした。

ノルマン人の南イタリア征服

ノルマンディー公によるブリテン島遠征がされるより少し前、11世紀初頭に南イタリアに渡ったノルマン人がいた。当時の南イタリアは、ビザンツ帝国領と、ビザンツ帝国に形式的に従う領主(ナポリ公など)、そしてランゴバルド王国の生き残りであるゲルマン人系の独立勢力(サレルノ伯、カプア伯など)が争っていた。最初の接触は巡礼のためにこの地を通ったノルマン人が勢力争いに傭兵として加わったことだといわれている。かれらは徐々に力を蓄え、ノルマンディーから一族郎党を呼び寄せ始めた。当時のノルマンディーは安定しており、支配者層の人口は過剰気味になっていた(これはウィリアムのブリテン島遠征の理由の一つでもある)。

1030~1050年頃までにフランス・オートヴィル地方から移住したとある兄弟の一団は、南イタリアのノルマン人コミュニティで頭角を現し、長兄ギヨームはアプーリア伯となった。それから伯位を受け継いだ弟ドロゴ、オンフロワらはさらに支配を強め、彼らの死後に地位を継いだその下の弟ロベール・ギスカールの代には1070年頃に南イタリアほぼ全域を支配する影響力を持つに至った。そしてイタリアから神聖ローマ皇帝の影響を排除したかった教皇の意向もあり、アプーリア公を授かった。末弟ロジェは兄の助力の下でシチリア島を征服し、全島を与えられシチリア伯を名乗った。

その後、ロベールはビザンツ帝国征服の遠征途上で病死。跡を継いだのは子のロジェ・ボルサであったが、それに反発した庶兄ボエモンはタラント候を名乗って独立し、内紛によりアプーリア公家は急速に衰退した。シチリア伯の叔父ロジェはロジェ・ボルサを表向きには支持したが、本家の争いに乗じてイタリア本土への影響力を強めていった。また、ボエモンは第一回十字軍に参加し、レバントにてアンティオキア公国を建国する。

シチリア伯ロジェが没すると、跡を継いだ息子ロジェ2世は分裂状態にあった本家アプーリア公家とタラント侯国を併合し、教皇庁の内紛の恩恵もあって1130年にシチリア王を授けられた。
ビザンツ、イスラム世界、キリスト教世界の交差点にあったこの王国は繁栄しギヨーム2世の代には十字軍にも参戦した。12世紀末に直系男子が途絶えると、王位は女系を通して神聖ローマ皇帝の手に渡り、そののちアラゴン王国とフランス・アンジュー家が争うことになった。
のちのシチリア王国(ナポリ王国、両シチリア王国)と区別して、これらはノルマン朝シチリア王国などと呼ばれる。

イスラム略史

その1・預言者とカリフ

ムスリルの歴史01.jpg
 七世紀初頭、預言者ムハンマド(マホメット)がイスラーム(イスラム教)の布教を始めたことでアラブは激動の時代を迎える。メッカを逐われたムハンマドは、メディナに移ると(聖遷、ヒジュラ)、ここに祭政一致の共同体を作り、勢力を拡大。西暦630年にはメッカに入城し、アラビア半島の統一を果たした。ムハンマドは間も亡くなったが、イスラム共同体はその後継者たるカリフの指導の下で、半島の外へと爆発的に勢力を拡大していく。ビザンツ帝国を圧倒して638年には念願の聖地エルサレムを征服し、また、オリエントの大国ササン朝ペルシアも651年に滅ぼす。
 オリエントは当時の先進地域であり、イスラム教はユダヤ教徒やキリスト教徒を同じ唯一神を信じる「経典の民」と規定した*1。よってイスラムへの改宗の強要は行われなかったが、ジズヤと呼ばれる人頭税を課されていた。しばしばイスラムを形容する言葉として用いられる「コーランか剣か貢納か」のうちの「貢納」はこれを指すものと思われる。
 何にせよキリスト教世界からはイスラム教は異教であると見なされたし、当然好意的な見方はなされなかった。

その2・イスラム共同体の分裂とアラブ帝国の拡大

ムスリルの歴史02.jpg
 イスラム世界の拡大は否応なく共同体の変質を引き起こした。共同体の総意による選出を理念としたカリフ制度も例外ではなく、第四代の正統カリフであるアリーが暗殺されたことでそれは決定的となった。シリア総督ムアーウィヤは661年にカリフを称し、ダマスカスに都して世襲王朝ウマイヤ朝を開いた。これに反発したアリーを支持する一派は、アリーの息子フセインを担ごうとしたが、680年にフサインは戦死する。イスラム教の最大の分派たるシーア派(シーア・アリー)はこのことによって成立したと言える。
 この内紛にもかかわらず、ウマイヤ朝は順調に征服事業を続け、中東以外にも北アフリカ全域とイベリア半島、中央アジアなどに勢力を拡大した。
 コンスタンティノープル攻囲は失敗し、またフランク王国への侵攻も頓挫した(トゥール・ポワティエ間の戦い、732年)ものの、地中海を「我らの海」とし、東西交易路を手中に収めたことでイスラム世界は空前の繁栄を迎えることとなり、文化的・経済的にはキリスト教世界を圧倒していた。

その3・イスラム帝国の誕生とイスラム世界の分裂

ムスリルの歴史03.jpg
 ウマイヤ朝の支配は「アラブ帝国」とも呼ばれたようにアラブ人が支配層となって異民族を支配していた。これはアラーの下の平等を説いたイスラムの教えに矛盾するとして不満が高まった。この時流に乗り、預言者ムハンマドの一族であるアッバース家が台頭した。反ウマイヤ勢力を糾合してアッバース朝が誕生すると、彼らは非アラブ人イスラム教徒への待遇を改め、イスラム帝国の理念を完成させた。アッバース朝が首都としたバグダッドは交易の中心地として大繁栄し、最盛期には人口は100万を超える世界最大の都市だったと目される。
 一方イスラム世界の中心を逐われたウマイヤ朝だが、一族が西方に逃れ、コルドバ(やはり盛時には人口100万を超える世界最大都市だったとされる)でカリフを名乗り、名実ともにイスラム世界は分裂した。
 この時期にアジア、インド、地中海、アフリカ・ガーナ王国にまで交易路はのび、バクダットは交易の中心地として栄え様々な文化が流入した。特にアッバース朝第五代カリフ:ハールーン・アッラシード(766~806)の時代がアッバース朝の全盛期だと言われている。

その4・イスラム帝国の分裂と大セルジューク

ムスリルの歴史04.jpg
 空前の繁栄を謳歌したアッバース朝だったが、弱体化は始まっていた。主にテュルク人*2からなるマムルークと呼ばれる奴隷兵士が軍事力の中核を担うようになり、これが帝国の分裂を加速させていった。地方の有力者が多数のマムルークを抱えることで自前の軍事力を手にし、自立する傾向を強めていったのである。
 こうして名目上はカリフの権威を認めるものの、実体としては独立の世襲王朝が各地に分立し、サーマン朝(875年独立)を初め、ガズニ朝(962年独立)やカラハン朝(960年独立)といった国々が覇を競い合っていた。それらの中にはシーア派を奉じるファーティマ朝(909年に独立)やブワイフ朝(932年独立)も存在した。カリフ自体もその実権を失い、大アミール(将軍)が実際の政治を行う形となった。
 イラン系かつシーア派のブワイフ朝は946年にバクダットに入城し、アッバース朝のカリフから大アミールに任じられた。以後、カリフは権威のみを提供し、実際の権力はその時々の大アミールが行使するというスタイルが定着する。
 一方、セルジューク家に率いられる改宗遊牧民の一団が中央アジアで勢力を拡大していた。家祖セルジュークの孫にあたるトゥグリル・ベグは1038年にガズニ朝を大破してその地方を支配、セルジューク朝を開いた。勢力を拡大したセルジューク朝は、1055年にはブワイフ朝を破ってバグダードに入城し、カリフからスルタンの称号を与えられた。以後も積極的にセルジューク朝は活動を続けて勢力を拡大していった。
ムスリルの歴史05.jpg
 セルジューク朝第二代のスルタン、アルプ・アルスラーンは名宰相ニザームの補弼を受けて大セルジュークの勢力を拡大、1071年にはビザンツをマンズィケルトの戦いで破り、皇帝ロマヌス4世を捕虜とする大勝利を得た。戦いの結果、アナトリアへのビザンツ帝国の影響力は低下し、イスラム化とテュルク化(トルコ化)が進むこととなった。

十字軍前史

ビザンツの混乱とアレクシオス1世

 大セルジュークのスルタン、アルプ・アルスラーンは捕虜とした皇帝ロマヌス4世と和平を結んで解放した。が、ロマヌス4世は帰国後、新皇帝ミカエル7世と争って敗れ、目を潰されて追放された。これによってセルジュークとの和平は破れ、ビザンツは小アジア(アナトリア半島)全域を失う危機に直面する。また、南イタリアの領土もノルマン人達によって奪われ、さらに貴族の反乱も発生するなど、混乱の極みにあった。
 これを見たコムネノス家のアレクシオスは、1081年に反乱を起こして帝都コンスタンティノープルへと進軍、皇帝を退位させて自らアレクシオス1世として即位した。危機にあってアレクシオス帝は精力的に行動し、クマン族と戦って領土を奪還し、ノルマン人を撃退し、さらにセルジューク朝*3と戦うための援兵を西方に求めた。
 最後の一つは失敗であった。なぜなら、アレクシオスの要請を受けた時のローマ教皇、ウルバヌス2世は1095年のクレルモン公会議において、エルサレム奪還を呼びかけ、熱狂的な反響を得たのである。
 かくして十字軍の時代が始まる。

大セルジュークの分裂と混乱

 ビザンツを圧倒したアルプ・アルスラーンの次にスルタンとなったのは彼の子、マクリ・シャーだった。彼は名宰相ニザーム(ニザームルムルク)に国政を委ね、ニザームもこれによく応え国を盛り立てた。セルジューク朝の最大版図は実にこの二人の時代に実現したのである。
 セルジューク朝の下にはいくつかの地方政権が存在した。アナトリアに移住したテュルク人達を統御するために送り込まれたスライマーンが拓いたルーム・セルジューク(1077-1308年。ルームとはローマのことであり、つまりは「ローマ帝国の辺りにあるセルジューク朝」程度の意である)やマリク・シャーの弟トゥトゥシュの拓いたシリア・セルジューク(1085-1117年)などである。
 シリア・セルジュークは大セルジュークの支援を受けてシーア派(正確にはイスマイル派)のファーティマ朝と抗争を繰り広げ、聖地エルサレムを含む地域を支配していた。
 ただそれだけの話なのだが、ビザンツ皇帝アレクシオスが西方に援兵を求めた際の理由には、聖地をトルコ人(テュルク人)が支配して現地のキリスト教徒を迫害している、という話になっていた。これは所謂デマに類するものだったが、西方のキリスト教徒達には大いに信じられ、十字軍への情熱を掻き立てる要因となった。
 話は前後するが、1092年の宰相ニザームとスルタンのマリク・シャーが相次いで亡くなったことで大セルジュークは分裂と混乱の時代を迎える。
 さらに1095年には本家の相続争いに参加したシリア・セルジュークの長トゥトゥシュが戦死してしまう。これによってシリア・セルジュークも南北に分裂して互いに争い、結果として十字軍への対処に失敗することとなる。

用語集

  • ビザンツ帝国
     東方世界に君臨するキリスト教の大帝国。
     後世からは東ローマ帝国、ビザンティン帝国などとも呼ばれるが、自称はローマ帝国であり、同時代的にもローマ(イスラム読みルーム)と呼ばれていた。
     「ビザンツ」は帝都コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)の古称ビザンティウムから。ビザンティンは「ビザンツの」の意。
     バルカンのみならずエジプト、レヴァンテ一帯をも支配し、オリエントの雄、ササン朝ペルシアとの死闘を繰り広げる。が、彗星のごとく出現したイスラーム勢力の攻撃を受け、斜陽の帝国は半島を中心に防衛線を確保するので精一杯であった。
  • ギリシャ正教
    東ヨーロッパにおけるキリスト教最大派閥。ゲーム中の呼称は正教(Orthodox)、東方正教とも言う。
    ローマ帝国の中心地ビザンチオンに存在していたことから”キリスト教の宗主”を自負してローマと対立していた。
    後に聖書の解釈の違いからローマとは袂を分かつ。
    現在、ギリシャ正教会と言えば「ギリシャ共和国」の正教会を指す場合もあるが、CKでは当然東方正教会そのものの事である。
    東方正教会の長たる「世界総主教」の任命権は皇帝が所有していた。
    そのためゲーム中では教皇領のように世界総主教領が独立の国家として存在する事はない。
    ビザンツ帝国の滅亡の際に世界総主教はオスマン帝国の傘下に下り、その後に設立された各国の正教会の名誉上の第一位として現在に至っている。
  • テュルク
     今日の「トルコ」と同根の語であるが、中身は相当に異なる。国家や単一の民族の名前とは思わない方が正確かもしれない。
     もともとは中央アジアの遊牧民であったが、イスラームを受け入れてのち、イスラム勢力の有力な担い手となっていく。遊牧民の常で族長の下に結束した集団として活動しており、「セルジューク」や「オスマン」といった王朝はいずれも一族の開祖たる族長の名に由来する。
     逆に言うと部族レベルを超えたまとまりは弱く、次々と分家を発生させ続け、これが王朝分裂の一因となる。
     かつて用いられた「セルジューク・トルコ」などの語が不正確であると考えられる理由は、この時代にトルコ人が民族としてのまとまりをもっていなかったとかだけでなく、王朝も典型的なイスラム王朝であって支配階層は多様な民族的出自を持っており、特段トルコ系であることを強調する必要がない(むしろ統治の実態を見失わせる効果がある)と考えられているためである。
  • カリフ
     ハリファ(ハーリファ)とも呼ばれるイスラム指導者の称。本来の意味は「後継者」とか「代理」とかであり、その名の通り、預言者ムハンマドの後継者としてウンマ(イスラム共同体)の指導者の任に当たった。
     初代のアブー・バクルから四代のアリーまでは「共同体の総意による選出」が機能していたとして「正統カリフ」と呼ばれる。
     が、アリーが内紛の末に暗殺された結果、イスラムの統一も終わり、シリア総督ムアーウィアがカリフを世襲する王朝「ウマイヤ朝」を開く。ウマイヤ朝はアリーの息子フサインと争ってこれを滅ぼすが、アリーの支持者たちはウマイヤ朝の正統性を否認、シーア派の祖となった。
     後、カリフ位はウマイヤ朝を滅ぼしたアッバース朝の物となるが、エジプトに都したファティーマ朝、イベリアに逃れた後ウマイヤ朝もそれぞれカリフを称するようになる。
     アッバース朝のカリフは次第に実権を失い、アミールやスルタンといった称号を持つ政治指導者が実権を握るようになった。ただ、権威だけはその後も残り、アッバース朝がモンゴル軍の攻撃によって滅ぼされた後もエジプトのマムルーク朝はカリフの子孫を保護して政権の権威の一因となし、さらにオスマン帝国はスルタンとカリフの称号を兼ねることで権威付けに利用した。
     オスマン帝国の滅亡後に名実共にカリフ制度は廃止された。
  • スルタン
     サルタン、スルターンとも。語意は「権威」。カリフから政治上の実権を委ねられ、それを行使した人たち。日本風に考えれば、幕府を開いた将軍に相当するような地位。
     セルジューク朝のトゥグリル・ベグに対して最初に与えられた。以後、イスラーム世界における政治指導者の称として広く用いられ、今日でもブルネイやオマーンなどの首長の名として用いられている。
  • セルジューク朝
     テュルク系の遊牧民の一派、セルジューク家が開いた王朝。もともとはペルシア高原北東部に本拠を置いていた。
     1055年にアッバース朝の命によりブワイフ朝を討ってバグダード(バグダッド)に入城、スルタンの称号を得てイスラム世界の中心勢力となる。
     諸分家が各地に割拠し、本家たる大セルジュークがそれら全体に支配を及ぼす構造(これをセルジューク帝国と称する歴史家もいる)となっており、勢力争いなどで分裂・衰退した。
  • シーア派
     シーア・アリー「アリー派」の省略形。イスラム教最大の分派。ムハンマドの女婿アリーとその子孫のみを預言者の正統な後継者と見なす。
     アリーの息子フサインがウマイヤ家との争いに敗れ殺害されたことを最大の痛恨事として成立した。
     最高指導者をイマームと呼び、誰をイマームと見なすかで様々な分派が発生していった。ファティーマ朝を開いたイスマイル派もその一つである。
  • スンニ派
     スンナ派とも。よく「シリア総督ムアーウィアをカリフと認めた人たち」とされるが、これは単なる誤りであり、強いて言うなら正統カリフの権威を認めた人たちである。
     イスラム教の最大派閥とされるが、実際のところは単なる「シーア派(やその他の分派)じゃない人たち」であって、特筆すべき信条があるわけではない。スンナとはムハンマドの言行を指し、これを重んじることが名の由来とされる、が、これはイスラム教的には当たり前のことである。このため、「スンナ派のスンナとは、分派の特殊な態度に対する中庸の態度を意味するとする考えもある」(MSNエンカルタより)
  • ウマイヤ朝
     シリア総督ムアーウィアが661年にダマスカスに建てたイスラム最初の世襲王朝。先述のようにアリーの一族との争いはあったが、全体としてはイスラム勢力の拡大に寄与した。ただし、その本質は「アラブ帝国」とも呼ばれたアラブ人優位の支配体制であり、ためにアッバース家による反攻を招き、750年に滅ぼされた。
     その後、一族がイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を建国している。こちらは756年から1031年まで存続した。
  • アッバース朝
    預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫がたてた王朝。ウマイヤ朝を追い出すとイスラム教のカリフを称す。
    広範囲の領土をもっていたが、次第に統制は失われ各地が分離独立する。1066年現在は、カリフとして名を残すのみである。
  • ファーティマ朝
     シーア派(正確にはイスマイル派)のイスラム国家。チュニジアに興り、シチリアやエジプトなどの北アフリカを支配し、混乱の続くバグダード方面に代わってイスラム世界の中心地として繁栄した。が、983年にズィール朝が独立してエジプト以西の領土が失われ、さらに混乱によって勢力を衰退させていった。十字軍に対抗する力もなく、のちにサラディンの建てたアイユーブ朝に取って代わられることになる。

*1 形式上はイスラム教は自らをアブラハムの純粋な一神教を再生したものであり、ユダヤ教やキリスト教は「純粋な一神教」が変質した後の姿だとしている。
*2 概念的にはトルコ人の遠祖にあたるが、この段階でトルコと呼ぶのは高句麗を韓国と呼ぶような物である
*3 正確には地方政権のルーム・セルジューク

トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2008-10-07 (火) 16:47:41 (3269d)