イルカの主

模範公レオン(1066〜1110)

ここ、ドルフィン地方は古くからブルクンド地方の中枢の1つであった。
かつてはブルゴーニュ王国が栄えた土地であり、中フランク王国の重要拠点でもあった。

しかし、今では東フランク王国から名を改めた神聖ローマ帝国の一地方伯であり、
その上、神聖ローマ帝国の属国であるプロヴァンス公国のそのまた属国であった。

これを嘆いていたレオンはブルゴーニュ王国の復活の野望を胸に秘め、1066年ドルフィン伯に即位をした。


即位して1年たった1067年に待望の長男ルイが生まれた。
その1年後の1068年には長女ジャスティーヌが、
更に1070年には次男フィリップ、1071年には三男レンドル、四男トマスと
次々に子供が出来たのである。

生まれつき長男ルイは軍事に、次男フィリップは財務と智謀に秀でていた。

しかし、三男レンドルは生まれた時から体が病弱であったため1072年の春に夭折してしまう。


その頃、神聖ローマ帝国内部では皇帝であるハインリヒ4世を筆頭に
メクレンブルグ領を討伐せよ!という声が高まっていき、
遂に1075年、神聖ローマ帝国とその同盟国であったポーランド王国が
メクレンブルグ・ポンメルンの両領主に宣戦布告をした。

この結果、リューベックとロストクが神聖ローマ帝国領に、
メクレンブルグとウェーレがポーランド王国領となった。

これを、後の人々は第1次北ドイツ戦争といった


しかし3年後の1078年、北ドイツでは新たな混乱が生じていた。
ブラバンド・フリーセン・ゲルレの3州が下ロレーヌの支配から抜け
独立を果たしたのである。

その上、ポーランド領内のメクレンブルグ伯と神聖ローマ帝国領内のロストク伯が同じように
主君の支配から独立を果たしてしまう。

これに大いに怒った皇帝ハインリヒ4世はブラバンドとゲルレ攻略し、
ポーランド側がメクレンブルグとロストクを攻略した。
この結果ブラバンド・ゲルレは神聖ローマ帝国領に、メクレンブルグ・ロストクはポーランド領となった。
一方、攻略されなかったフリーセンは見事に独立を守った。

これを第2次北ドイツ戦争という。

そのころ、ドルフィン伯レオンの下に五男ジョフリーが生まれ、
道路や図書館などの施設が立ち並ぶドルフィンは、ブルゴーニュ有数の豊かな土地となっていた。


1082年次女のジャクリーンが誕生する。43歳となっていたレオンはこの子を最も溺愛していた。
しかしその年、レオンが若い娘に手を出したのではという噂が流れたが
後にデマだということが判明し、教会や市民たちから信頼を取り戻した。

1085年、レオンは家臣団の役職を世代交代を理由に自分の子供たちを一気に任命した。
長男ルイを司令官、次男フィリップを代官、ルイの妻ティブルゲを外交官、四男トマスを隠密とした。
自分の一族による役職の独占で安定を図ったものであった。

1087年には初孫のマルティンがフィリップの長男として生まれた。
その後にもルイのもとには長男シャルルと長女ダニエラが、
フィリップのもとにも次男ハンベルト、三男トマス=フィリップ、長女ベスが誕生
さらに、レオンの四男トマスのもとにも長女ジャンヌ、次女マーシーが生まれ一気に大家族となった。
(フィリップの三男はトマスという名だったので区別をつけるためトマス=フィリップとしました)

しかし、夭折する者もその分多かった。
ルイの長女ダニエラが1090年に、フィリップの長女ベスも1092年に、
更にはトマスの待望の長男ハロルドも1093年に生まれてわずか1ヶ月の命であった。
このことは領民を嘆かせ、司祭たちも自分たちの無力さに絶望を感じていた


1095年中東では一大事件が発生した。
なんとファーティマ朝がビサンツ帝国にエジプトのほぼ全域を奪われ滅ぼされたのである。

この事は瞬時にローマ教皇や皇帝、諸王たちにも伝わった。
即位したばかりの皇帝ハインリヒ5世は自らの名声を高めるためエルサレム侵攻を決断したが、
この事は神聖ローマ帝国の弱体化に拍車をかける結果となった。
無論、ドルフィン伯であったレオンも諸侯と共にエルサレムに侵攻した。
だが、諸侯が血を流した後に皇帝が駆けつけ、更にエルサレムを直轄にしたことが諸侯の反発を買った。

この翌年の1096年にはボヘミア公がボヘミア王となり独立する。
それを追うようにベルン伯、ブラバント伯が独立する。
皇帝はボヘミアの独立は容認したが、この2伯に関しては宣戦布告をした。
レオンもブルゴーニュ王即位の野望から、ベルン伯に宣戦布告し、ベルンを自らの領有とした。

ブラバンド伯のほうもスウェーデン王国を味方につけ徹底抗戦をした。
その結果、ブラバンド伯は独立を達成し、北ドイツのいくつかの領土がスウェーデン王国領となった。

これを第3次北ドイツ戦争という。これにより、帝国各地に独立の機運が流れ始めた。


1100年、なんとドルフィン伯の主君であるプロヴァンス公国が独立を果たした。
これにより、神聖ローマ帝国とドルフィン伯の間に主従関係が消滅した。

この年、トマスに次男フィリップが生まれるも1年で他界してしまう。

ドルフィン伯レオンは60歳を迎えたがまだまだ第一線で戦えるほど健康であった。
とはいえ、自らがブルゴーニュ王になれなくてもドルフィン公爵には即位したいとの希望があった。


1105年にイングランド王国と同盟を結ぶ。
その翌年にはスコットランド王国と同盟を結び、徐々にドルフィン公爵への準備が進んでいた。

1107年にはイベリア半島のサラゴサ太守が他のイスラム教徒と戦争し始めた。
これに乗じ、サラゴサ太守に宣戦布告し、テラゴナを自らの領土として、サラゴサ太守を滅ぼした。
これに功があった長男ルイにベルン伯の称号を与え、後任の司令官には四男のトマスを立てた。

この年にはなんと孫のシャルルのもとに男の子が誕生した。これを喜んだレオンはこの曾孫をゴーシュと名づけた。
だが、孫嫁のシセルはこの子を産んだ後に帰らぬ人となった。


1109年ベルン伯とした長男ルイから同盟を求められる。
さらに隣のヴィヴィエル伯からも同盟を求められる。
これらにレオンは快く承諾しドルフィン公爵となるために同じプロヴァンス公国の属国である
ヴェニシン伯に宣戦布告をしたが、これに怒ったプロヴァンス公はドルフィンに対し宣戦布告をした。

同盟を結んでいるイングランド、スコットランドはこの戦に関与せず、
プロヴァンスの属国であるヴィヴィエル伯も同盟を考えてかこの戦に関与しなかった。
他のプロヴァンスの属国であるサヴォイ伯、フォルカルヴィエ司教も様子見の状態であったが、
ただ、唯一ベルン伯だけがどちらに付くかを考えていた。

プロヴァンス兵は自分の土地を守ることだけを考えていたのかは知らないが、
プロヴァンスから一歩も出てこない。だが、これはドルフィン伯を挟み撃ちにする策略であった。

ドルフィン兵がヴェニシンを落とし、歓喜にわいていたときある凶報が届いた。
なんとプロヴァンス公がベルン伯であるルイとともにドルフィンを攻めてきたのである。
レオンは衝撃を受けるも、兵達と共にドルフィンへと踵を返した。

レオンはドルフィンに戻った時すでにプロヴァンス兵1500、
ベルン兵200によって攻城戦が開始されていることを知った。
こちらにはドルフィン兵1200のみであったが負ける気はしなかった。
直ちに攻撃を開始したところ、プロヴァンス公自身の軍事の才は疎く兵が散り散り担っていった。
ベルン伯のルイが指揮官だったら恐らく負けていただろう
しかし、レオンはプロヴァンスの連合軍に勝利したのだ。

そして、プロヴァンスへ侵攻しプロヴァンス公国から和解金と独立の承認を得た。
一方のベルン伯とも和解し、1110年レオンは大勢の一族と民衆が見守る中、ドルフィン公爵となった。
ドルフィン公爵位は長年の間、空白であったためレオンは自らをレオン1世と名乗り、
この位を自分の一族で世襲する考えを明らかにした。

レオンはすでに71歳となっており、この公爵就任が彼の最後の仕事となった。


その数ヶ月後レオンは老衰で死去する。多くの人に親しまれ、
多くの領主たちからその統治は模範とすべきと言われたことから彼は模範公と呼ばれている。

家臣団の中には次期公爵に、父を裏切った長男ベルン伯ルイでは無く、
常に父であるレオンを支え続けた次男フィリップを押す声が多かったが、
フィリップが辞退したためベルン伯のルイがドルフィン公となった。


ドルフィン家系図1110.GIF
1110.GIF

添付ファイル: file1110.GIF 307件 [詳細] fileドルフィン家系図1110.GIF 329件 [詳細]

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Last-modified: 2004-08-07 (土) 00:00:00