暗黒の果てより

ヌビア王朝期

ドンゴラ王朝前史

 ドンゴラ王朝については、ヘースティングスの戦いが行われた直後より前の記録は不正確なものが多い。
ただ、不正確ながらも北から迫り来るイスラム勢力に対して四苦八苦していたことだけは事実らしい。

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▲当時のヌビア王の紋章

彼らはもともと古代エジプト人と同系の民族であったが、ギリシャ系が入った後にアラブ人が侵入しイスラム化したエジプト民族(アラブ人)と分岐した。
彼らはコプト系キリスト教徒であり、6世紀にも正教会からその事実を確認されていた。

ゲオルギオス・ドンゴラ

 ゲオルギオス・ドンゴラ、彼こそはヌビアにあったキリスト教のドンゴラ王朝を世界に知らしめさせた最初の人間である。
記録には1066年の時点では27歳だったらしい。彼は優柔不断だったが、謙虚でよき軍人だったらしい。
外交は得意ではなかったが、策は当時の一般的な水準を満たしていた。
1066年の時点ですでに結婚をしていた。当時としては子宝に恵まれるのは遅く28歳になってからようやく第一子をもうけている。

 長男セオドロスが生まれた1067年には、すでに彼は名君であったことがわかっている。
規律・秩序が守られた国家を整備していた。統治が安定していたことを示す書物もある。
この頃、彼は全土を一人で統治していてたようである。というのも国王1人いればどうにかなるような広さだったのだ。

エジプトの征服

 北にはイスラム教徒のファーティマ朝エジプト王国が存在していた。
彼らの存在は軍事的な脅威のみならず、その存在によってヌビアと他のキリスト教世界を隔離するものであった。
ヌビアが強国を目指すのにあたって、彼らとの共存は絶対に不可能であった。
しかしながら、ゲオルギオスには正面から決戦を挑んで王国ごと天に召される気もなかった。

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▲当時のヌビア王国。南部の緑がヌビアである、北の黄緑はファーティマ朝である。

彼はヌビアの閉塞の源であるエジプトの打倒を、外交とファーティマ朝の封臣たちの切崩し、そしてタイミングを見計らった軍事行動で達成しようとしていた。
まず、1069年にビザンツ帝国との同盟を結ぶ。この外交交渉はエジプトを横切る外交使節がイスラム勢力に捕まらなかったという幸運によって達成された。

 1071年、理由は明らかではないがエジプトの西のイスラム勢力、キレナイカ首長国がヌビアに宣戦を布告した。
アスワンに進軍してきたキレナイカ軍をゲオルギオスは迎え撃ったが、なんと進軍してきた軍がそのまま幾ばくかの賠償と引き替えに和平をしてほしいと請うてきたのだ。
ゲオルギオスはそれを認め、ヌビアからさるキレナイカ軍を追撃しなかった。

 1076年には国内状況はますます成長傾向を見せていた、これもゲオルギオスの熱心な内政の賜である。

 1077年、ゲオルギオスはシナイ半島にあるエルアリッシュ首長国と同盟を結ぶ。有事の際にファーティマ朝エジプトを二手から挟撃できる事となった。
エルアリッシュ首長国もイスラム勢力ではあるが、彼らもまたエジプトの圧力に耐えかねての異教徒との同盟だったのだろう。
そしてその同盟は成功したといえるだろう、1078年にサルキシャ首長国がファーティマ朝から分離を宣言。すかさずゲオルギオスは紅海を渡ってその地を攻め落とした。
だが、自分の元封臣の領土をとられたエジプトは激怒してヌビアに宣戦を布告した。ゲオルギオスはサルキシャのファーティマ朝エジプトへの割譲を認めエジプトと和平した。
この際、時同じくしてマジョルカ首長国が宣戦布告してきたが二ヶ月後に賠償金を払ってきたので戦争は終わった。

 1087年までゲオルギオスは国領増強に努めた。そして、その年には仇敵であるファーティマ朝エジプトから同盟提案を受け入れた。
同盟関係にある以上、エジプトも攻撃してこれまいと思ってのことだった。
エジプト側としてみれば増えた封臣が不穏な動きを見せていたため外征などできなくなった、というわけであった。
その年、エジプトの封臣達は一斉に蜂起した。10年前と同じく、「ファーティマ朝の同盟者として」彼は反乱を起こしたサルキシャからエジプト各地を攻めた。
そして、首長国を制圧すると彼は蜂起した封臣達に自分への帰順を求めた。彼らに断れるすべはなかったのでこれはうまくいった。
各首長国を次々に臣下としていったゲオルギオスはエジプトの半分を制したこととなった。
これはまたしてもエジプトを激怒させることとなる。だが、昔のエジプトはそこにはなかった。

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▲1089年のヌビア王国、もはやエジプトからイスラム勢力は駆逐されつつある

1089年、アレキサンドリアを陥落させたヌビアはエジプト全土を制圧することとなった。それに満足したかのようにゲオルギオスは息を引き取った。
享年五十歳、この代よりヌビアはムスリム勢力に対する反攻を始めたのだ。

セオドロス・ドンゴラ

不屈の王子

 成人するまで彼はビザンツ帝国に留学していた。そして、その地でその身なり故か相当の苦労をしたようである。
ビザンツとは良好な関係を維持していたヌビアだが、この時から心の奥底ではこの帝国を恨むようにはなっていた。
事実、帰国したときには彼はビザンツ帝位の奪取を考えるようにまでなっており。まわりにもそう主張していたようだ。
この様に、どんな状況にあっても不屈の意志をもって耐え抜いてきた。
彼は外交と策、そして兵略や経済のセンスも父より高かった。
ゲオルギオスの在位期間中、セオドロスは家令として働いていた。
ゲオルギオスは封土を与えなかった、というより与える余裕がなかったためこのような処置になったと思われる。
彼は、父が外征先のエジプトのアレキサンドリアで死ぬとヌビア王に即位した。
彼は宮廷内にいい嫁の候補がいなかったため、ギリシャ人と結婚していた。

エジプト王

 彼の統治は戦争で始まった、ファーティマ朝エジプトはアレキサンドリアを含めて直轄地を失ったが国家として消えていたわけではなかった。
エジプトはガビバヤ首長国を取りつぶして直轄とし、そこで生きながらえようとはした。
が、彼はそれを許さずガビバヤを攻めエジプト王国を滅亡に追い込んだ。

 しかし、そこでまた問題が発生する。エジプトの消滅とともに臣下となっていた首長国は一斉に独立を宣言したのだ。
怒り狂ったセオドロスはこれらの首長国を1092年までに臣下にするか、滅ぼした。

 1092年、今度はシナイ半島にあるエリアリッシュ首長国がヌビア支配下のケーナ首長国に宣戦を布告。
セオドロスは好機とばかりにシナイ半島に侵入、これを併合した。

 彼は制圧した地域で次々とキリスト教への改宗を迫り、それはたびたび暴動を引き起こした。
だが、彼はヌビア本国部隊をもって異教徒に改宗を強制した。
1094年には新たにエジプト国王であることを宣言した。
プトレマイオス朝滅亡から1000年、東ローマがエジプトを失陥して400年、古エジプトの末裔でありキリスト者である者が再びエジプトの支配者となったのである。

 その後、十年間は外に向けては行動を起こさなかった。
国内に残ったイスラム系の封臣を滅ぼしたり、各地で改宗を迫ったり平和(?)に過ごしていた。
1104年に第一回十字軍が行われたが、彼にとって関係ないことであった。

 1107年、エジプトの北部に残っていたペルシア首長国を併合。その際に小さな戦争を起こしている。
その四年後、彼は老衰により死亡した。後継者は長男でカイロ公国の王子、アレキシオスが継いだ。

アレキシオス・ドンゴラ

王家のギリシア化

 彼はカイロ公国の主として即位までを過ごした。
弟はヌビア風の風貌をしており、文化的にもヌビア人であった。
しかし、彼は母親の影響が強くギリシャ人的な風貌を持っていた。
彼は父と同じく不屈であり、祖父のごとく謙虚でもあった。
1111年に彼はヌビア及びエジプト国王に即位する。

 なお、彼の代から王朝内部のギリシャ化が進むこととなった。

福者アレキシオス

 即位時にはすでにエジプトの多くはギリシャ正教に改宗されていた。
アレキサンドリアはイスラムが強かったため、彼は都をその隣のガビバヤにおいた。
先代からキリスト教系の封臣が置かれ始めていたが、彼はその動きを早めた。
すなわち、キリスト教化された土地には司教をおき統治を任せるようにしたのだ。

 1114年にはアラブ系エジプト人の妻との間に長男ステファノスが生まれた。

 1118年、アル・ムラービト王国と戦争に突入した。両者ともに、この戦争で何も得なかった。

 1130年、彼は老衰により死去した。外から見ると彼の生前の業績は特に目立ったものはない。
しかし、彼は熱心な領内のキリスト教化を行い、その功績により正教会から列福された。
なお、彼はボヘミア王国とキプロスを巡って生涯小規模な紛争を続けていた。

ステファノスの統治とアレキシオス・アルカディオス兄弟の悲劇

ステファノス・ドンゴラ

 ステファノスも父同様、即位まではカイロ王子として過ごした。
彼も熱心なキリスト教徒であり、僧兵王子と呼ばれていた。
彼はアレキシオスとアルカディオスの二人の子供をもうけた。
しかし、その統治期間は短かった。
兵略や外交の才がに秀でていて、経済的なセンスは非常に優れていた。
ただ、賢明であったが疑り深く、策については父とそれほどかわりはなかったと言われ、暗君だったという。

 この時、彼の幼弟イオンネスは行方がわからなかった。
西洋に留学したっきり、音沙汰がなかったのである。

 ステファノスは18歳で即位した。
この成年王は敬遠なキリスト教徒であった。
しかし、それが災いした。
アレキサンドリアで起きたイスラム教徒の暴動を鎮圧する際、重傷を負ってそのまま病気となった。
1136年には失明してしまう、そしてその翌年には若くして亡くなってしまった。

アレキシオス・ドンゴラ(アレキシオス2世)

 アレキシオス2世は3歳で即位した幼王である。
政務は彼の母が宰相として執っていた。
幼王に対してヌビアの諸侯は反発し、反旗を翻した。
しかし、軍事的にヌビア王国軍にかなうものではなくすぐに鎮圧され彼らは臣下に戻った。
1140年に彼は密偵頭に毒殺された。故に彼については特に記述することができない。

アルカディオス・ドンゴラ

 兄が毒殺された後、アルカディオスは即位した。しかし、2歳の彼もまた幼王であった。
いよいよ、ヌビアの栄光も終わったかと思われた。不満の矛先を変えるべく、彼の母は王国軍に西進を命じキレナイカ首長国に侵攻を始めた。

 1145年、ヌビアはキレナイカ首長国からその領土の大部分を奪取する。
ただし、彼らの本国は別にあったためキレナイカ首長国が滅びたわけではなかった。
その後、キレナイカがダマスカス首長国の封臣になったため、こんどはダマスカス首長国とも戦い始めた。
そして、四年後にはついにリビアの一部を除いてそれらを領土とすることに成功した。
アルカディオスは戦後、キレナイカ王に即位した。

 1147年に第一回十字軍が終わったが、アルカディオスの宮廷にもその武勇伝がまとめられ、届いていた。
その際、アルカディオスは騎士となって異教徒と戦いたいと母親に屈託のない笑みで語ったらしい。
困ったことに、その母親は今で言うモンスターペアレントであった。
彼女はシリアにあったトルトサにあった聖ヨハネ騎士団の領土をいきなり主張し、断られるとみるやそれを攻めて封臣とした。
そして、彼らから聖ヨハネ騎士団の団長という地位を取り上げ、アルカディオスにその地位を授けた。
その後、アッバース朝と戦ったが得るものはなかった。

 1153年、アルカディオスは成人し親政を始めた。
彼は12歳にしてすでに父親以上に兵略と経済センスが秀でていたと言われる。特に策については歴代では最も優れていたと言われる。

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▲1153年の宗教勢力図、茶色が正教、白がカトリック、黄緑がイスラムである。ヌビア王国統治下では正教への改宗が相次いだ。

 彼の代においてエジプト国内の正教信仰はもっとも栄えたと言える。
彼は希代の天才であり熱心な信徒であり、その才能を統治に存分にいかすかと思われた。
しかし、1155年にその能力を生かす場もなく急死してしまった。兄同様に毒を盛られたとも言われる。
彼には子供はなく、ドンゴラ王朝も絶えたかと思われた。
そんな中、先々代の王ステファノスの弟イオンネスが突然宮廷に現れ即位を宣言し、次のように述べた。

「我が宮廷のものは悉くキリスト教に改宗せよ!さもなくば訪れるのは死ぞ!」

暗黒の果てより


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Last-modified: 2013-01-19 (土) 22:52:42 (1770d)