暗黒の果てより

エジプト王朝期

エジプト王朝概要

 エジプト王朝(アレクサンドロイア朝前期)はヌビア国王イオンネスの統治期間中に、ヌビア的要素を払拭した中世ドンゴラ王朝中期の呼称である。
血統の断絶さえなかったものの、イオンネス以降のドンゴラ王朝はそれ以前とは分けて考えられている。

エジプト王国紋.png
▲当時のエジプト王の紋章、イェルサレム十字の上にヌビア王の紋章を描き王朝のルーツを表している。

 この王朝はそれ以前の王朝とは異なり、カトリックを信奉する王朝となった。
そして、それ以前のヌビア系統の王族や貴族は徐々に死や下野を強要されるようになっていった。

イオンネス・ドンゴラ、自称「プレスビュテル・ヨハンネス2世」とその息子イサキアス・ドンゴラの統治

カトリック・エジプトの祖

 彼はピサ共和国に留学していた。そこで神学者となり共和国の一員として働いていた。
その過程で彼は狂信的とも呼べるカトリックとなった。
すでに彼は王位継承から外れていると思われていたため親族の誰もが気にとめていなかった。
しかし、甥が毒殺されるや否やヌビアに舞い戻ってカトリック国家にすると宣言したのだ。
当然のことながら即位と同時に内戦が起きることとなった。

 彼は内向的で公正な厳格な神学者であった。ただ、非公式な場では臆病からくる謙虚さ、意志薄弱な面も見せていたという。
在位中の彼の行いはほぼ神学者としての義務感から来たものであったともいえる。
あるいは、神学者というアイディンティティが強迫観念となり、意志がその薄弱さ故に負けたからかもしれないが。

エジプト=ヌビア戦争

 この戦争の最中、ヌビアとエジプトの上下関係が正式に逆転することとなった。
すでに、代々ヌビア王国はアレキサンドリアかその近くのブハイリャに都を置いていたが、直系王家がギリシャ化されてもヌビア系の傍系や臣下は優遇されていた。
しかし、この戦争においてそれは完全に廃されることとなった。

 イオンネスは内戦の最中、いったん正教徒にヌビアとの分離を認めたため、エジプト王を第一称号とすることにした。
もちろん彼はすぐにそれを撤回し、ヌビア王位を再奪取した。しかし、彼以降の代はヌビア王号を第一称号とすることはなかった。
彼の代を境目にしてドンゴラ朝ヌビアは崩壊したと今日では見なされている、もっとも彼と彼の後継者達もヌビアの王であったためドンゴラ王朝が滅んだとはされない。
しかし、正教徒のドンゴラ王位請求者の一族はその後数十年で完全に滅んだ。
故に、彼は「ドンゴラ=イオンネス王朝」の祖とされている。ドンゴラ王朝の持っていた請求権はすべて彼が引き継いだ。

 イオンネスは譲歩の姿勢として、正教徒の妻を娶り改宗させようとした。
が、失敗し彼女は1157年に廷臣達よりどこかへと幽閉された。
その後、すぐにイオンネスは北方の貴族の娘を妻とした。
1158年にこの内戦は終わり、カトリック・エジプト王国の時代が始まったのである。

神学者王

 彼は盛んに各地で正教徒と論戦を行った。
しばしば、それは暴動に発展したがスムーズに進んだ例も多かった。
また、残存していた正教系の封臣も多くが廃され、カトリック系の封臣が新たにおかれた。
しかし、この処置によりヌビア王朝以来安定していた統治は完全に崩壊し、社会が混乱した。

 1167年、彼はその信仰心の高さを内外から評価され、法王の後見人となった。
当時は十字軍の盛んな頃であり、プレスビュテル・ヨハンネス伝説が噂となっていた。
法王は彼こそはアフリカに逃れたプレスビュテル・ヨハンネスの末裔であり、必ずやイスラム教徒からエルサレムを奪還してくれるだろうと説いた。
彼はそれを聞くやいなや、自らをプレスビュテル・ヨハンネス2世と名乗ったといわれる。
ただ、イオンネス本人は自国(ヌビア)の南部に最近できたコプト教国があり、実はそっちの方がプレスビュテル・ヨハンネスではないかと思っていたらしい。
そしてコプト教国との関係は薄く、イオンネスの代となってからエジプトではコプト教は異端とされていたので関係を持てるはずもなかった。

スコットランド・アイルランド王位継承問題

 後見人となったことを祝した席の上で、彼は驚くべき事実を知る。
二番目の妻であるゲール人との子であった次男ステファノスがスコットランド・アイルランド王位の継承順位でかなり上の方に来ていることが判明したのだ。
それを知った彼は我が子にスコットランド王位を継がせるため、法王の後見人という地位を遺憾なく発揮した。
彼は他の後継者およびスコットランドの宮廷を、「神に仇なす異端者の巣窟」とののしり全員を破門した。
スコットランド王を破門することは適わなかったが、その衝撃は大きいものだった。
以降、彼らが神の恩寵という日を浴びることはなかった。
また、スコットランドに対する挑発としてステファノスをイングランドへ留学させた。
これはイオンネスがスコットランドとイングランドは対立しているからであろうと考えたからだ。

その最後と評価

 彼は肺炎にかかり1168年には没してしまい、スコットランド王となった息子をみることはなかった。
彼は信仰を評価され、福者となった。後継は長男のイサキアスだった。

 死後の彼の評価は見方によって異なる。スコットランド人に言わせれば、「法王を担いで西欧を荒らしたアフリカの蛮族」である。
しかし、彼は福者とされた厳格なキリスト者であり、また彼のおかげでカトリックがアフリカに広まった。
ドンゴラ王朝正教(ヌビア)派支持者にとっては悪魔と喧伝されていたが、ヌビア出身者はその王国の拡大とともに影響力を失いつつあったのでその流れを加速させただけともいえる。
後世において彼は聖王イオンネスと呼ばれる。

イサキオス・ドンゴラ、苦難の少年王

 1168年、イサキオスは12歳で即位した。彼はイオンネスの子として教会から過大な期待をされていた。すなわち、エルサレムの奪回である。
彼は臆病で敵対的で、ストレスをため込んでいた。だが、口だけはうまかったらしく外交においては天才と期待されていた。
廷臣達は忠誠を拒むことを躊躇わず、敵と勝手に和平したことすらあった。封臣は暗殺者を差し向け、重傷を負ってしまった。
無能ではなかったようだ、彼は陰では実力者と思われていた。故に、彼を恐れてのことだったのかもしれない。

 しかし、彼はそんな状況に絶えきれなくなってしまった。1178年、彼の自殺という形により彼の統治は終わった。
聖王の息子らしかぬ死であった。

ステファノス大王

スコットランド王位継承者

 イングランドで教育を受けていたステファノスはつい前年にエジプトに帰ってきたばかりであった。
弱冠17歳の王であったが、彼には生まれつき飛躍のチャンスを握っていた。
彼はこの時点で、既にスコットランド王位継承順位1位だったのだ。
彼は繊密な謀略家として知られ、他の才も人並み以上にはあった。

大王への道

 1179年、フランス王はローマを攻め落とし法王庁はどこかへと消え、それにより1173年に始まった第二回十字軍は終わってしまった。
このことは当時の西欧社会にとって衝撃だったが、これを聞いたステファノスは決意を新たにした。

「朕以外に、エルサレムを保護することのできる君主などおろうか?否、いまい」

彼は廷臣にこう述べ、来るべきエルサレム攻略に備えさせたという。
彼の妻との関係は良好ではなく、1181年にクリストフォロス、1185年にデメティロスという非嫡出児を作っている。

 しかし、体裁としては厳格なキリスト教君主であったため、1185年に法王の後見人となっていた。
自分よりスコットランド王位継承順位が上になっていた赤子を破門するように法王に願い出た。
また、不仲であった妻に怒って彼女を破門させたこともあった。
だが、彼女がアナタシオスという彼の子供を産むと破門はとかれた。

 1186年、彼は法王に十字軍を再開するように直訴した。これにより第三回十字軍が発動された。
第三回十字軍はもっとも成功した十字軍と言われ、彼はその成功の主役であった。
この十字軍は実質エジプト王国軍のみで行われ、翌年にはカソリックのアラブ人兵士を引き連れたステファノスがエルサレムに入場するという形で終わった。
1189年、この十字軍は正式に終了したと法王庁は発表した。

 ただし、海路でエルサレムを攻略したため、本国とエルサレムの間にイスラム教徒が残存しており、それを叩くまではステファノス個人にとっては十字軍が完成したとはいえなかった。
1191年に彼はセビリア首長国を叩き、本国とエルサレムの間に回廊を確保している。今で言うガサ地区には未だにイスラム勢力がいたがこれも徐々に駆逐されていった。

 1204年、彼が待ち望んでいたときが来た。スコットランド王が死に、彼に王位が与えられたのだ。
ドンゴラ王朝はエジプト・ヌビア・キレナイカに続いてアイルランドとスコットランドの王号を手にするに至った。
しかし、この地は統治するには遠すぎたので、彼は彼の非嫡出児クリストフォロスにその二つの王位を与えた。
さらに1211年にはエルサレム王に即位した。
その三年後、満足したように彼は息を引き取った。王位は長男アナタシオスが継いだが彼も病気で同年中に亡くなったので、ステファノスの次男ペトロスが王位を継いだ。

ペトロス・ドンゴラ、福者たる大悪魔

ペトロスの憂鬱

 彼はエジプト国王としては実質最後の国王である。
彼はカイロ公爵として即位までの時間を過ごしていたが、彼はひどい憂鬱を抱いていたという。
即位後にそれは解決されたが、彼以外にドンゴラ王朝に男系はいなかったためひどく心配されていた。
彼は野心家であったが実利的であり、外交と策謀に秀でていたという。

福者たる大悪魔

 1216年、彼はあることを耳にした。北東の平原に東より来たるネストリウス派の皇帝ありと。
多くの騎士を従え、イスラム勢力を駆逐しているとも言われていた。
結局の所、それはモンゴル人でありキリスト教徒でも何でもなかった。
しかし、彼はネストリウス派が東方で帝国を築いていたと信じ、異端の脅威に対して真剣に考え込んだ。
彼は、正教徒とカトリックの福者を祖に持ち、さらに先祖の一人は聖人であった。
彼は自分こそ主なる父に、キリスト者としての債務を果たし、法王を助けるよう命じられていると本気で信じ込むようになった・・・様に見せかけた。
実際の所、彼は不信心であったかもしれない。彼の一人目の妻は「謎の」暗殺者によって殺されているが、彼が放ったという説もある。
ただし、証拠はなかったので彼の評価は下がらなかった。
彼は息子コンスタンティノスに異教の皇帝の話をよくしたらしい。後年、このことが世界史的な大事件を起こすとも知らずに。

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▲ペトロスの統治時代初期のエジプト王国周辺の宗教分布図、白がカトリック、茶は正教である。この頃までにコプト教徒や正教徒は激減した。一部のコプト信徒は南に逃げたといわれる。

 1227年、スコットランドのドンゴラ王家は非嫡出児という汚名を晴らしたと宣言し、自分たちにもエジプト王位継承権があると宣言した。
これにより、廷臣達は完全な断絶は避けられたと安堵したが、すでにペトロスには子供がいた。
翌年、彼はガザ地区の制圧とエルサレム南方の異教徒の制圧のためにアッバース朝に宣戦を布告した。
戦いは有利に進み、1234年にはほぼすべてのイェルサレム地方とメディナおよびメッカの制圧に成功した。
メッカとメディナの制圧は各地に衝撃を起こした。イスラム教徒の聖地にキリスト教徒が土足で踏み込み、聖地を破壊したのだ。
彼はまずメッカにあったマスジド・ハラームとカアバ神殿を改装しメッカ聖堂とした。
中にあったイスラム教徒の財宝は売り払われて、散逸してしまった。また、逃げようとしたイスラム教団の関係者はペトロスの軍によって悉く殺された。
カアバの黒石はペトロスの命によって、砕かれて秘密裏にあらゆる場所へと捨てられたという。
その後も彼はメッカ市民やメディナ市民にキリスト教を強要し続けた。結果的にヒジャーズ地方は後年にはカソリックの土地となった。
心のよりどころを失ったムスリム達にとってこの出来事はショッキングなことであり、後世まで禍根を残すこととなった。

 1234年に彼は亡くなったが、彼も福者とされた。異教徒を征した騎士としてである。ムスリムからは大悪魔と呼ばれ続けている。

暗黒の果てより


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Last-modified: 2013-01-19 (土) 22:55:13 (1770d)