1150年のポーランド周辺及びマゾフシェ公領

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1150年のピアスト家・マゾフシェ公領

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マゾフシェ公ラスロ(画像)は初のハンガリー系君主である。
先代プルツェミスラフ公は戦争で多くの金貨を消費していたが、ラスロはダンツィヒ伯時代に
極めて有能な家令の采配もあって多額の財を築き上げていた。
王家はプルツェミスラフ公治世末期(1140年頃)に1歳で即位したヤクブ王が健在。
分家筋ではボレスラフ王(兄王)の次子が祖のアルカ・ピアスト家が残存(のちポーランド王)。

ラスロには即位時に男子2人、女子1人がすでに誕生。
男兄弟は次兄ボルコ(教区司祭、のちにズドヴィア司教)を筆頭に計3人が生存。
分家筋としてはメクレンブルク・ピアスト家(当主はラスロの甥)
ホルシュタイン・ピアスト家はヤセク(先代の弟)に嗣子なく断絶。
直轄地7州、称号請求権多数(ベーメン中心部への請求権など)

治世前半期

ラスロが公位にのぼってまず行わなくてはならなかったのは、先代が残したモルドヴィン族との戦争の始末であった。
戦いはポーランド側が優勢であったが、バルト海沿岸の領土を押えるだけでは不足で、
ルーシを横切ってブルガール地方にある領土まで制圧しなければ降伏する兆しが見えなかった。
だが、ポーランド王の手持ちは少なく、マゾフシェ公も資金力には限界があったため膠着状態に陥っていた。

しかしラスロには先代と違って資金が豊富にあった。
即座に兵を動員して遠征に出発したのだが、間もなく相手方から和平提案がなされた。
ラスロは無理に戦争を続行し遠隔地に領土を持っても維持困難と判断し、この和平案に同意し、兵を解散した。
ヤクブ王はその後しきりに兵の提供を依頼してきたが、全てを拒否、その後両者は敵対するようになった。
大元の原因は文化の違いであった。王家はポーランド系、公爵家がハンガリー系であったため、
ラスロは王家に嫌悪感を抱いており、それが高じて公然と敵対的な態度を取るまでになったのであった。

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さらに同時期メクレンブルク・ピアスト家がマゾフシェ公支配下から離脱し、ポーランド王家の臣下となったことで
もはや両者の戦闘は避けられない事態となっていた。

だが、ヤクブ王がローマ帝国とフランス王国を相手にした大戦乱に参戦したため、
内戦間際の状態でありながら国内は10年もの間平和が保たれたのであった。


  • 1160年前後のローマ帝国
    ルーシの名門リューリコヴィチ家による支配が固まってはいたが、
    1066年当時の領土+ルーシほぼ全土を平穏に保つのは困難で各地で独立や反乱が相次いでいる。
    ただし、皇帝は概して有能で、主要地域は大いに繁栄。
  • 1160年前後のフランス王国(カペー朝)
    トゥールーズ公やアキテーヌ公の反乱で一度は滅亡の危機もあったが、両地域を併合後は
    強力な国家に変貌。イングランド王の破門をきっかけとした20年戦争によってイングランドの併合を完了、
    さらにはドイツ、イタリアにも勢力を伸ばし、カトリック国最強の王国となった。
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    ※英仏の灰色地域はウェールズ王国(カペー朝の分家)

ヤクブ王は嗣子がいないまま1160年頃戦死し、アルカ・ピアスト家のミエスコが即位した。
ミエスコ王の時代に入るとフランスとは講和が成立し、
対ローマ戦でも「敵の敵」であるハンガリーが優位に戦いを進めていたため、
新王に対してもラスロは形だけの忠誠を誓うのみで兵を供出することはほとんどなかった。
この間、多額の収益を使って大規模な建設活動が公領各地で行われたが、それでも
金貨は貯まり続け、兵力は増大し、軍指揮官要員も十分。戦争の準備はすべて整った。
あとはローマとポーランドの講和を待つばかりであった。

治世後半期

1166年、ローマ帝国とポーランドが講和。その直後、ラスロは決着をつけるべくミエスコ王に宣戦布告を行った。

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同時にメクレンブルク・ピアスト家にも宣戦、リューベック部隊で即座に制圧を行った。
メクレンブルク・ピアスト家からは全称号の差し出しでの講和の提案がなされたが、
ラスロは甥を追放するのはあまりに酷であるということで再臣従要求のみで講和した。

一方、王家との戦いは各地に分散した王国軍の集結前にポーランド近郊の全領土を押えたことで
大きく優位に立っていたが、王号奪取は困難と見るや情勢の変化もあって兵の損耗が少ないうちに
1州の割譲、公領4州への請求権放棄で講和を締結した。

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情勢の変化とはハンガリー王ヤノス(ザクセン公ビルンク家の出身)がチュートン騎士団と戦争を始めた矢先に破門され、
ハンガリー諸侯の動揺が広がっていたことである。
この混乱を利用し、旧王家のクラクフ等の所領を一気に奪い去ろうとラスロは考えたのであった。
だが、混乱していてもハンガリーは旧ペチェネグと旧北方異教徒の領土の多くを有する大国。
ラスロはその打倒のためには「昨日の敵」であるミエスコ王に臣従することさえ平然と行った。

1169年、ハンガリー諸侯複数が反旗を翻したところでラスロはハンガリー王へ宣戦布告、
一挙にクラクフ以下3州へなだれこんだ。守備兵1500ほどに対し、マゾフシェ公軍は各4000以上。
戦いは一方的な展開で推移し、ほどなく制圧を完了した。
ハンガリー王は1州を踏みつぶして奪う予定だったチュートン騎士団の粘り強い抵抗で消耗したうえ、
ヤノス王が嗣子無きまま崩御しビルンク朝が断絶、幼王即位という危機的状況に陥ったため
直轄領は10州以上あるにもかかわらずこの時点でマゾフシェ公制圧下の3州を割譲する条件での講和を提案、
ラスロはこれを受諾した。

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ラスロは王家への忠誠心は今も昔もなかったため、動員令はすべて無視し、あろうことか
ハンガリー王と同盟を結ぶほどの有様であった。
これはハンガリーが大分裂状態に陥ったため、ポーランド王家が強大化する雰囲気を見せたら
即座に休戦条約を破って王家を叩く、という「実利的」な思惑から出たものであったが、
今までの強引な政策も相まってラスロの評判は非常に悪いものとなっていた。
ラスロはその嫌悪感が薄まるまではできる限り動かない方が良いだろう、と考え
称号の請求等はしばらく控えることにした。


ポ・ハ両国の戦いはその後大きな戦闘もなく終結。
メクレンブルク・ピアスト家はコンラッド(ラスロの甥)とその子供の死去後ラスロが領土を継承、
ハンブルクをラスロの長男ヤノス(すでにダンツィヒ・クヤヴィ伯)に、メクレンブルクを弟ベルフリムの次男に与えた。


ラスロはゆっくり待てばよい立場であった。
ポーランドのミエスコ王は50近い上に寄生虫に蝕まれる体で子はいない。
継承順位第一位は他家の0歳の赤ん坊で同族でないため心理的にも実際的にも潰すのはたやすい。
継承順位第二位は発狂している若者。第三位は無能な老人でこれらも問題はない。
51歳になったが、病一つせず、軍人として頑強なラスロには死角などないはずであった。

しかし、隣国の貴族と狩りに出た際に毒矢を誤って自分に刺してしまう事故によって
重体となり、その後回復しないまま1176年息を引き取った。享年51。
公位は長男ヤノスが継承した。

  • ラスロ死去前後のポーランド王国
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ポーランド、大国への道


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Last-modified: 2009-02-01 (日) 11:03:09 (3548d)