プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)

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マヌィチ伯はヴォルガ河の下流、カルムイクと呼ばれる地の北半分を治める
小さな伯爵領である。
地名に由来する家名が示すとおり、家格も何もない地方の有力者といったところだ。
主君であるアラニア侯はどの王にも属さない、いわば独立勢力であり、
マヌィチ伯の他、クマ伯、イェゴルリク伯を封臣の列に加えていた。
アラニア侯や他の封臣ともども、マニク家はギリシア正教を信仰していた。

 

この地域は北のクマン(異教)、南のトルコ(イスラム)、東のハザール(ユダヤ)と
文化・信仰のるつぼと言って良い地域である。
黒海沿岸にはグルジア王(正教)がいるが、この地を制覇するほどの力は持たず、
政治的にも混沌とした状態が続いていた。

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ここに一人の若き統治者が登場する。
彼はおそらくこの地を訪れたイタリア商人あたりに吹き込まれ、
カトリックこそがイエスの教えを正しく伝えるものという確信に至ったらしい。
当時は誰も気づかなかったが、彼はその強い確信を現実のものとすべく、
行動を開始するのである。
個人にとっては、信仰をどうするかという問題は内面の葛藤である。
しかし統治者のそれは政治的な混乱につながるものであった。
若者の名はマニク家の当主、ブリカン。彼とともにこの地の悲劇は始まるのである。

 

 初代 ブリカン(1039-1093)

ブリカンの即位当時、カトリックへの改宗などという彼の大それた計画は誰も知らずにいた。
ただでさえ不安定な地の、一伯爵である。
軽率な行動は簡単に破滅につながることを、彼は理解していた様である。
しかし、最初の一歩はこのとき既に踏み出されていた。

ハンガリー王の宮廷にマニク家の使いが現れたのは、1066年の事である。
黒海の彼方の国からわざわざ妻問いとは。廷臣たちはあざ笑い、王も取り合わなかった。
ブリカンはそれでもあきらめず、ウングヴァール公に狙いを変える。
彼の熱意に折れたのか、公は末席の廷臣をブリカンに与えることを許した。
ソフィア・ヴェルダイがマヌィチの地を踏んだのはそれから数ヶ月後の事である。
もちろん、彼女はカトリックの信徒だった。

 

数年が過ぎる。ブリカンとソフィアとの間には、長女ブルデュカン、
長男レスペンディアルをはじめ3男2女がもうけられた。
宮廷は貧しく、また表向きは正教徒とカトリックの夫婦であったが、大きな争いもなく、
マニク家にとっては最も穏やかな日々であった。

平穏を破ったのは、主君であるアラニア侯である。
1073年、クマン族、イティル部族との戦争が勃発。
再三の動員命令にもかかわらず、ブリカンは戦いに決して加わろうとはしなかった。
この戦いでアラニア侯はクマン族に破れ、1075年にアラニアを明け渡した。
直轄領の無いアラニア侯は、クマ伯からクマの地を召し上げなければならないほどであった。

戦争の傷も癒えぬ同年、今度はアラニア侯とグルジア王との間に争いが始まった。
ここに至って、ブリカンはアラニア侯を見限ることにしたのである。
既に話は付いていたのであろう。黒海を抜け、
ヘレスポントスを下った快速船がセルビアのジオクレア公の許にたどり着いたのは、
1075年の末のことであった。
廷臣たちが見守る中、ブリカンの名代が厳かにジオクレア公への臣従を誓う。
こうして、マヌィチ伯はジオクレア公の封臣となったのである。
アラニア侯がグルジア王に破れて和を乞う、わずか数日前の出来事であったと言われる。

 

ブリカンは理解していたのである。自発的な改宗より、
主君の命による改宗の方が、人々を納得させやすいという事を。
地理的に見て、ほとんど名目上のみの主君であるジオクレア公から
「正しい信仰への強い勧め」があったのは、1081年の事である。
この年、ブリカンは「主命を受け入れる」という形でカトリックに改宗し、これを公にした。
それは、多文化、多宗教が渦巻くこの地に、新しい紛争の種が蒔かれたということでもあった。

 

ブリカンが改宗した当時、彼の宮廷を占めていたのは正教徒である廷臣たちであった。
またマヌィチの地の人々も、変わらず正教を信仰している。
予想された通り、この後の数年マヌィチの宮廷は狂信と死とで彩られた。

1082年 元帥がカトリックへの改宗を拒否して処刑
1084年 宰相が同じく改宗を拒否して処刑される
1086年 密偵頭がカトリックに改宗。ブリカンの妻ソフィアの働きかけによるものと言われる。
1091年 親族の一人が改宗を拒否したあげく自死

統治者の信仰が、いかに多くの人々に影響するかという良い例でもあった。

 

対外的にはこの間、ブリカンは特に目立った動きをしていない。
グルジア王から持ちかけられた同盟を結ぶ一方、ジオクレア公とペチェネーグ族との
争いには知らぬ顔を決め込んだりしている。
1091年に、娘をヴァチカンに留学させたのが周囲の話題を呼んだくらいであった。
1092年にアラニアが反乱により独立したが、
度重なる戦いに疲弊したグルジアはこれを黙認した。

1093年 ブリカン死去。

ソフィアとの間に得られた3人の息子のうち、唯一生き残っていたレスペンディアルが
マヌィチ伯を継いだ。
継承は問題なく行われた。だがブリカンは、息子の改宗には成功していなかった。
この事が、マヌィチにさらなる混乱を引き起こすのである。

 

☆識別のため正教徒のDukeを侯爵と表記しています


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Last-modified: 2008-09-08 (月) 23:20:16