プレイレポ

グリア殲滅戦

Alexios Dukas, The Annihilation on Guria, Alexandria 1250; Tr. Efendi.

「ああ、あれは『王が逃げた』と言っていたのか」
わたしは城に伺候してきたムスリム商人のおかげでここしばらくの謎を解いた。

「ハーン・カチュムシュラル!」
 何千何万というタルタロイ人が、ある者は泣きながら、ある者は怒り狂いながらそう叫んではわが軍に背を向けて壊走していったあの日、忘れもしない1248年8月22日のグリアの勝利を思い出す。

 グリア Guria 州はグリア地方とその南のアジャリア Ajaria 地方を併せた区域で、西を黒海に、南北を山脈に囲まれた平野を北のイレメティア Iremetia 州と分け合っている。古のコルキスに相当し、イアソンが金羊毛を求めに赴いた地である。北のコーカシア山脈はグルジアとアラニアの境をなす峻険な山脈だ。この平野の南端の海沿い、アジャリア地方にバトゥム Batum [現バトゥミ Batumi]城がある。
 街道は、大海の縁に沿って北へ進み、黒海へ注ぐリオニ Rioni 川を遡って至るイレメティア州・クタイシ Kutaisi 城への道、カフカス山脈の南麓を東進してティフリスよりさらに北東になるカヘティア Kaheti 州・テラヴィ Telavi 城へ至る道、東に連なる丘陵地帯を越えてクラ Kura 川に達し、これを下って至るグルジアの都、ティフリス Tiflis [現トビリシ/カルトゥリア Kartli 州]への道、南の山脈を越えてバトゥムへ注ぐチョルフ Chorkh 川を遡って至るタオ Tao [現チョルフ]州・アルトヴィン Artvin 城への道、、そして黒海の縁に沿って南西へ進むトレビゾンド Trebizond 市[現トラブゾン/トラペズス Trapezous はもう少し古い読み方]への道、と5本ある。無論、バトゥムの港からは黒海を越えてコンスタンティノープルへもシノペへも行くことができる。
 このグリアの地に、1248年の夏、両軍合せて14万の兵が世界の覇権を巡って相争った。

 わたしの名はアレクシオス・ドゥーカス、初代アカバ公にして、此度の戦功によりグルジア公ともなった。かのグリアの戦いの勝利者であり、それに至る苦難とこれから続くであろう艱難辛苦を知る者だ。であるから百人隊長どもが兵士らを鼓舞するにあたり、「グリアの勝利を思い出せ」などと言うのを聞くにつけ腹が立って仕方がない。あのような古今比類ない栄光は匹夫どもの勇気を万あつめたところで得られるものではないのだ。吟遊詩人がタルタロイ人に捕らわれた姫君を救うなどと歌うのを聞くや、あわや卒倒するところであった。
とはいえ、わたしももう70歳にならんとする。本当に死んでしまう前に、この口が動く間に、かの栄光に至る過程を語っておこう。

 少々古い話になる。12世紀初頭、コーカシアを二分してきた北のアブハジア王国と南のデルベントのアミールの戦いは後者の圧倒的な勝利で幕を下ろそうとしていた。アブハジア王国は故地であるアブハジアを残すのみとなったが、長い戦いの中でデルベントのアミール、ヤーズィド・アワドの息子ズベイルは任されていたグリアで叛旗を翻していた。
 その頃、時の皇帝、ドゥーカス朝2代目のアンドロニコス1世陛下は諸侯の軍を発してアルジャジーラのアミール(この頃はペルシアを治めるセルジューク朝のスルタンに故地アルジャジーラを奪われ、エデッサに蟠踞していた)討たんとされておられたが、このときついでにズバイルのグリアを奪ったものらしい。
アンドロニコス1世陛下はアルジャジーラのアミールを討たれた頃から病を篤くされたため、軍は解かれたが、跡を継いだペトロス1世陛下は軍を再召集し、パルミラのアミールを討たれ、わが帝国、ペルシアのセルジューク朝、エジプトのファーティマ朝の三大勢力に囲まれた弱小なアミールたちの平定を終えた。このパルミラのアミールはアゼルバイジャンのスエニク州を飛び地としてもっていたため、これも帝国の治めるところとなった。
 その後、デルベントのアミールはセルジューク朝の傘下に加わり、彼らの聖戦の尖兵となった。黒海の北ではクマン族が強大な勢力を誇っており、両者の激突が期待されたが、セルジューク朝は東のステップの遊牧民と、クマン族は西のキエフ公国や北のウラジミル公国と戦うことを選んだ。
 ペトロス1世陛下はこの後、ファーティマ朝から離反したキレナイカのアミールをお討ちになり、ここを拠点に続くエルマネス1世陛下がエジプトを、さらにロマノス1世陛下がシリアとアラビアと、三代にわたってファーティマ朝の領域を奪うことに精力を傾注された。わたしがかたじけなくもロマノス1世陛下よりアカバ公の地位を賜ったのもこのとき、1228年のことである。このため、北東の国境は一世紀の間ほとんど変化が無かった。すなわち、旧来より帝国の東辺をなすトレビゾンド、アルメニアにグルジアのグリア州、アゼルバイジャンのスエニク州、イメレティアのアブハジア州を加えたものである。これら北東諸州は、アブハジア州の北西に隣接する独立したトムタラカン伯(元はガリーチ公国に属していたが、ガリーチ公国はクマン族とポーランド王国に挟撃された後、わが帝国に恭順した。トムタラカン伯はこれを潔しとせず、独立した)のほかは、すべてセルジューク朝と接していた。

 さて、この世界の北東の果てにはゴグとマゴグという恐ろしい種族が棲んでいる。黙示録に予言されたこの世の終末をもたらす者どもだ。いまから1500年ほど昔、世界を征服されたアレクサンドロス大王はこれらを打ち破り、城壁を築造して世界の果てに封じ込めになられた。が、そのさしもの城壁もかの者どもにこじ開けられてしまったらしい。なにせ建造されてから1500年も経ち、かの者どもはこれをこじ開けるのにずっと奮闘してきたであろうから、それはやむをえないことだ。こうしてこの世に這い出てきた彼らは1240年にはペルシアとブルガールへと迫った。
 ところで、この世界の果てに棲む悪鬼どもは聖書の伝えるゴグ、マゴグの他、モンゴルやオイラートなどさまざまな族に分かれているようだ。これはこれらの軍に接触した旅人が伝えたものなのだが、この旅人が釈然としなかったので、ある者が「自分たちはタタルの者である」と言ったという。なるほどもっともな話だ。彼らはタルタロス Tartaros 、すなわち地獄から来たのだから。以来、彼らのことはゴグ、マゴグという不正確な呼び方ではなく、まとめてタルタロイ人と呼ばれるようになった。
 ペルシアに現れたタルタロイ人はセルジューク朝が、ブルガールに現れたタルタロイ人はクマン族がそれぞれ広大な領国から集めた大軍で迎え撃ったが、どちらも完膚なきまでに叩きのめされてしまったらしい。タルタロイ人は援軍の来ない城を次々と落としていった。
 この両者のうち、先に帝国に接したのはクマン族を討った北のタルタロイ人であった。彼らはクマン族をあらかた平定し終えると、セルジューク朝領のグルジアを南進した。すでにこの方面のセルジューク朝の軍も壊滅していたため、彼らはほとんど損害なくグルジア、アゼルバイジャンを奪えるはずであった。東のタルタロイ人はペルシア本国の城塞がより強固であったこと、生き残ったセルジューク朝軍がタルタロイ軍本隊と戦おうとせず彼らの後背を襲ったことなどで、北のタルタロイ人よりずっと苦戦していたのだ。

 1246年の春、北のタルタロイ人は3万の兵をもってテラヴィ城を落とし、さらにティフリス市を包囲していた。彼らがアブハジア州を放置して南進したことから、彼らが当面帝国と敵対せず、セルジューク朝領を奪えるだけ奪おうとしているのは明らかに思われた。とすれば、程なくアルトヴィン城へ向かうだろう。この山間の城は、バトゥム城、トレビゾンド市、テオドシオポリス Theodosiopolis [現エルズルム Erzurum]城、アニー Ani [モンゴル軍に破壊された繁華な交易都市。現在のカルス Kars の東、オジャクリ Ocakli 村]市、ドウィン Dwin [現エレヴァン Yerevan]市、そしてティフリス市へ至るそれぞれ峠道でのみ接しており、これらのうちティフリスを除くすべてが帝国に属していた。強大な悪鬼の軍勢を迎撃するに当たり、ここほど有利な場所はないように思われた。いずれ北のタルタロイ人が南下し続けたとしても、やがて東のタルタロイ人と接し、彼らの向かう場所は帝国の他はない。であれば、彼らがタオ州という穴に自ら潜り込むこのときを捕らえるべきではないか。そのようなわけで、1246年7月1日、帝国全土の公爵及び皇帝に直属する伯爵に召集が命じられた。

 わが帝国では、輜重などの面から一城に17,000人程度の兵しか置かないことになっていた。というか、城がそのように造られていた。そのようなわけで以下に著す兵の配置はすべて17,000人程度である。
 モルドヴァのオリビア州には黒海西岸を守るべく、チェルミンスキー伯ニコラス・ドゥーカス以下、北方諸州の軍が置かれた。オリビア州からチェルミンスキー州に至って点在する諸伯は、かつて帝国と同盟したドイツ王国が東方進出した際、帝国が得たものだ。が、此度はまったく無防備のまま捨て置かれた。
 クリミアのテオドシア州にはクリミア半島を守るべく、ニケーア公マヌエル・ラスカリス以下、黒海沿岸諸州の軍が置かれた。彼らにはクリミア州にタルタロイ人の分遣隊15,000人が対峙していた。
 東方国境では、グリア州にはイコニウム公レオン・ドゥーカス、トレビゾンド州にはラオディケイア公アレクシオス・プリンキプス、テオドシオポリス州にはカイロ公アレクサンドロス・ドゥーカス、アニー州にはわたしアカバ公アレクシオス・ドゥーカス、ドゥイン州にはエデッサ公ニケタス・ブラナスがそれぞれ展開していた。後詰として、カルデア州にはヴァルナ公アルバニテス・シナドネス、カリン州にはベンガジ公コンスタンティノス・ドゥーカス、スエニク州にはミリスティコス・ドゥーカスが、コロネイア州にはコリントス公ロマン・ドゥーカスが7,000の兵を控え、また皇帝ロマノス1世陛下は近衛兵7,000に護衛されてシノペにあった。以上、わが軍の総数は183,000に達した。
 一方で敵は、一隊を15,000とし、これを共に行動させたり別々に行動させたりしているようだ。彼らといえども城攻めには時間がかかるため、ある時点で同時に城攻めをしている兵数の情報を合せれば、およそ彼らの軍の規模が知れた。おそらく、10隊、150,000と見られた。これに既に服属させた各地方の兵を集め、すでにタルタロイ軍に粉砕されてわずかなものだがそれでも、10,000以上の兵がいるはずである。この敵の部隊のうち、1隊は先述の通り、クリミア州にあった。1隊はアブハジア州の北、クバーン州にあった。2隊はカルトゥリア州にあってティフリス市を包囲中である。他の6隊の所在は不明のままだ。

 このようにわが軍が万全の構えをする中、ティフリス城を陥落させた敵の2隊はその後に分かれ、1隊が予想通りタオ州へ、もう1隊は東へアグバニア (Caucasian) Albania / Aghbania [現在のダゲスタン南部とアゼルバイジャン全域を指すが、ここではカスピ海沿岸のデルベント市を中心とするダゲスタン地方とバクー市よりやや内陸のシェマハ Shemakha/Shamaxi 市の間にあるとすれば、クーバ Quba/Kuba 市周辺を指すのだろう]州へと向かっていった。2隊であればともかく、1隊であるならば、むしろほぼ同数の兵で当たって敵の勢いを見ようということになり、敵がタオ州のアルトヴィン城を陥落させるや、即座に宣戦布告し、アニー州にあるわたしの率いる軍がタオ州に攻め入ることとなった。
 こうして、1247年5月23日、帝国はタルタロイ人に戦いを挑んだ。

 わが部隊は6月にはタオ州に入ったが、常に斥候の軽騎兵を先行させ、敵の不在を確認しつつ慎重に進んだため、アルトヴィンの盆地に至る頃には7月になっていた。敵軍は全軍が軽騎兵と弓騎兵から成るという。とはいえ、どう陣立てしたものか。そのような敵と戦ったことはないのだ。だからこそわれわれがまず一戦当たってみるのであり、いつもどおり、中央には槍歩兵、重歩兵、弓兵と並べ、左右両翼には軽騎兵、重騎兵、軽歩兵を並べた。
 盆地では、小麦の刈り取りの終わった茶色、休閑中できんぽうげが咲く黄色、牧草地に充ててある緑色が起伏のある土地を彩り、周囲を頂上に白雪を残す青い山々が取り囲んでいた。空は雲一つ無く晴れ渡っている。暑くなりそうだ。この美しい夏の日に、玄武岩で造られた無骨な要塞を背にした異形の騎馬軍団はまったく非現実的な存在に見えた。が、近づくにつれてそれが逃れようのない現実だと悟らされた。
 およそ10スタディオン[1800m]の距離をおいて対峙した。にもかかわらず、静かであった。時おり互いの陣営の馬が嘶くほか、ひばりの鳴き声すら聞こえた。
 敵方が全員騎兵で機動力に勝るのだから、当然敵が先に動くであろうと思っていたのだが、地獄からの尖兵ともあろう者どももどう動いたものか手をこまねいているかに見えた。そこで諸将に伝令を発し、左右の両翼を伸ばすことにした。
 すると、敵軍は直ちに反転し、逃走を始めた。わが左右の軽騎兵がこれに猛然と追いすがる。彼らは敵方の足を止め、本隊との戦いへ導くのがその役割なのだから、その行動は正しい。だが、相手が悪かった。ほとんど速度が変わらないのだ。その上、敵の弓騎兵が時たま馬上から振り返り、追いすがるわが軽騎兵に矢を放った。たいした損害を与えるわけではないのだが、わが軽騎兵らを猛り狂わせる挑発としては十分であった。彼らは敵を追うにつれ、次第に城から離れ、辺りには松の木が増えていった。やがて長く生い茂った雑草に馬の脚を取られ速度を落としたところで敵の包囲攻撃を受けた、らしい。軽騎兵に続いて後を追った重騎兵、軽歩兵も同じような策にかかった。
 結局、このアルトヴィン盆地の戦いでは、敵が撤退してわが軍が勝利を収めた。だがこれは勝利と呼べるのだろうか。わたしは噂のタルタロイ人の顔を見てやろうと首級を求めたが、それをもってくる兵士はいなかった。また、諸将に点呼を取らせ損害を確認したところ、わが軍は600人の兵士を失った。わずか600人ではある。だが、われわれは600人を失って、敵の1人も討ち取ることができなかったのだ。
 また、わたしは諸将に周辺を平定させつつ、タルタロイ人がアルトヴィン城を攻略中に野営した箇所を調査させた。その調査において、少なからず馬の骨が発見され、われわれは喜色を浮かべた。馬を殺して食べたということは、彼らが包囲攻撃中に兵糧を枯渇させ、馬を殺すのやむなきに至ったと考えられるからだ。彼らが先の戦いで早々に撤退したのも、そのような事情があったからであろう。敵の行動も限界に達しつつあるのではないか。だが、調査が進むうち、違う解釈を生む余地がでてきた。馬の骨が多すぎるのだ。にもかかわらず、先の戦いでは敵の全員が騎乗していた。彼らにとって馬肉を食べるのはごく普通のことであり、食べるために多くの馬を連れているのではないだろうか。彼らは牛車に曳かせた輜重隊とは無縁であり、常に全軍を戦場と同じように意のままに動かせるのではないだろうか。そうであれば、彼らは先の戦いのように常に損害無く600人の帝国軍兵士を殺害でき、それを積み重ねて全軍を壊滅させることができるのではないだろうか。
 とりあえずわたしは、この戦いの過程とわたしの懸念をすべて皇帝陛下の元へ送り届けた。敵はティフリス市まで退いたようで、おそらくわたし同様、本隊へ報告をし、また援軍を仰いでいるのだろうと思われた。ティフリス城はこのグルジアの要衝であるから、ここに敵を、他方に味方を置くのはもったいないと思われたので、わたしは軍を率いてカルトゥリア州へ入った。敵は予想通りわずかな抵抗を示しただけで、デルベント城へと退いていった。

 わが部隊がタオ州へ進軍している頃、クバーン州にあった敵の1隊は帝国の庇護するアブハジア州へ侵入した。アブハジア伯トリフィロス・スパルテノスは彼の部下と共にクリミア半島のテオドシア州にあった。また彼の家族はコンスタンティノープルのブコレオン宮殿に避難した。皇帝陛下はアブハジア州を守ることはできないと考えていたのだ。
 クリミア州にあった敵の1隊は、帝国軍の駐屯するテオドシア州を避け、コルサン州を襲った。彼らがコルサン州に入ったとの報告を受けたニケーア公は麾下の兵をコルサン州へ進ませた。そして、タオ州におけるわれらと同様、彼らも敵を追い払うのだけには成功した。ニケーア公はこの結果に納得せず、敵軍が唯一逃げ込むことのできたクリミア州へ追って入った。ニケーア公が素晴らしかったのは、こんどは逃がすまい、とクリミア州と下ドニエプル州とをつなぐかの地峡に先駆けて兵を置いたことだ。敵軍は、コルサン州でと同様、ちょっとした小競り合いの後に逃れようとして、逃れるところのないことに気づき、恐慌を来たして狩られていった、ということだ。一部は漁民の小舟を奪って海へ逃れたが、そこで敵がなぜ恐慌を来たしたかが判明した。タルタロイ人ははなはだ水が苦手なのだ。ニケーア公の麾下に置かれた諸将は海上の敵に追いすがったが、タルタロイ人は舟の上で立つことも泳ぐこともできなかったらしい。こうして、敵の10隊のうち、1隊、15,000余人が完全に壊滅した。

 程なくして、クリミアにもう1隊の敵部隊がやってきて、同じようにニケーア公によって壊滅させられたことから、タルタロイ人を海に追いやれば覆滅させることができる、ということが確認された。
 問題はいつ、どこでそれを成し遂げるか、だが、その答えは敵が与えてくれた。敵の本隊、77,000人がおそらくはカソグス州からイメレティア州へ入ってきたのだ。1248年2月15日のことである。わが領国のうちイメレティア州に陸接するのはグリア州しかない。グリア州の守備隊を後退させれば、彼らはグリア州に進んでくるに違いない。敵は、これを自分たちをおびき寄せる罠だとは思わないだろう。なぜならば、わが領国のうちでグリア州は突出しており、近隣の援軍を得られない駐屯軍17,000人では到底彼らの77,000に対抗はできないからだ。罠であるとないとにかかわらず、われらは後退しなければならなかった。

 この間、この戦争の最初にタオ州を守っていた敵の1隊は、わたしの率いる軍隊によって2度追い払われ、デルベント城まで退いていたが、彼らは本隊がわれらの「不逞な」軍隊を追い払うために南下しつつあることを伝え聞いたのであろう。さきにこの隊と別れてカスピ海西岸を南下していった1隊(この隊はすでにシェマハ州、シールワーン州、タブリーズ市を陥落させていた)を追って、ともにギーラーン州を攻略していた。
グリア州での殲滅戦が成功するにせよしないにせよ、カスピ海を用いて敵の後背に軍を派遣できれば、現在東のタルタロイ人をセルジューク朝軍が翻弄しているように、長きにわたって戦いを有利に運ぶことができるだろう。そのようなわけで、ドゥイン州を守っていたエデッサ公はアグバニア州へ、カリン州を守っていたベンガジ公はシェマハ州へ派遣された。
 また、グリア州を包囲するためにテオドシオポリス州にあったカイロ公はタオ州へ、グリア州にあったイコニウム公は海路カルデア州へ、コロネイア州にあったコリントス公はアミソス州へ置かれた。わが部隊はカルトゥリア州まで進み、トレビゾンド州のラオディケイア公と、シノペ州の皇帝ロマノス1世陛下は動いていない。カルデア州で後詰をしていたヴァルナ公麾下の17,000人は、各地の小競り合い(とりわけクリミア半島での戦い)での損失を補ううちに解体してしまっていた。

 皇帝陛下より届けられらた計画によれば、敵の本隊がイメレティア州を発しグリア州へ向かったことが確認された時点で、カルトゥリア州にあるわが17,000の兵がカヘティア州へ進発し、アミソス州にあるコリントス公麾下の7,000、シノペ州にある皇帝陛下の近衛軍同じく7,000、皇帝領トレビゾンド州の2,000、皇帝領コルチェフ州の800のそれぞれの兵が海路イメレティア州へ向かうことでこの一連の作戦が始まる。
次にわが部隊がカヘティア州へ入ったことを確認した後、タオ州のカイロ公がカルトゥリア州へ、トレビゾンド州のラオディケイア公がタオ州へ、カルデア州のイコニウム公がトレビゾンド州へとそれぞれ移る。通常、敵地への移動は用心深く行われるため、隣接する州でも2ヶ月を要するのに対し、領国内でなら1ヶ月で移動できるため、このような時間差が設けられるわけだ。
 そして、カヘティア州に着いたわが部隊はテラヴィ城を、イメレティア州に上陸した皇帝陛下・コリントス公の合同軍はクタイシ城を可能な限り速やかに攻略し、グリア州の敵本隊を封じ込めなければならない。もしわれわれの包囲が完成する前に、あるいはしたとしても、わが包囲軍がグリア州に達する前にカヘティア州ないしイメレティア州に戻っていれば敵は逃げおおせることができる。頼りとするのは、テラヴィ城やクタイシ城が旧型のいわゆる三稜城郭なのに対し、グリア州のバトゥム城はすでに帝国では一般的な堀と稼動梁型跳ね橋を備えた堅固な城塞であったこと、こちらの部隊が包囲のために移動するのが行きだけであるのに対し、敵は包囲網に一旦足を踏み入れてさらにそこから退くために往復しなければならないこと、だ。あとは、バトゥム城を落とした敵が実は包囲されていることにどれだけ速く気づいて後退を始めるのかが焦点となろう。
 最後に、わが部隊の取り掛かるテラヴィ城と皇帝陛下の取り掛かるクタイシ城で、より遅く陥落させた時点でグリア州を取り囲む5州に配置されたあわせて85,000の兵がグリア州へ入り、敵と雌雄を決する、ということになる。

 この壮大な計画は、早速修正を余儀なくされた。イメレティア州を目指す皇帝陛下・コリントス公の合同軍を載せた船団が期待よりかなり遅かったのだ。6月1日、コリントス公麾下の7,000の兵がイメレティア州に上陸したときには、わが部隊の攻略するテラヴィ城はあと2週間、敵が攻略するバトゥム城もあと3週間で陥落させられるほどに事態が進展していた。
 ともかくも、このままでいけば8月20日頃には確実に敵はグリア州を去ってイメレティア州に戻ってきてしまう。不幸中の幸いとして、わが部隊がテラヴィ城を陥落させる6月15日頃に、カヘティア州、カルトゥリア州、タオ州、トレビゾンド州の4隊、67,000の兵(既にわが部隊はテラヴィ城攻略で1,000人弱を失っていた)を進発させれば、これらを8月15日はグリア州へ送り込むことができる。
 敵の76,000人(敵も同等の兵を失っていると期待する)に対し、わが方67,000人ではかなり厳しいが、それでも最悪、もしわが軍が全滅しても敵の50,000人ほどは道連れにできるであろう。
 あとは、皇帝陛下が8月15日までにクタイシ城を陥落させることができるか、だ。
 わたしは以上のような計算を皇帝陛下の元へ送り届けると共に、グリア州を包囲する他の三公爵へ指示を送った。越権行為であることは承知の上である。ともかく時間がない。三公爵もわたしの提案を、最善ではないもののいま採りうる策としては最上のものと承知してくれるだろう。

 8月10日、偉大なる皇帝陛下は見事自らの責務を果たされた。クタイシ城は陥落し、敵軍75,000人はグリア州へ封じ込められたのだ。
 そして翌8月11日、われら四公爵の率いる67,000人がグリア州へ入り、北上する敵の後尾を捉えた。何という神の配剤であろう。
 グリア州とイメレティア州の州境を成すリオニ川、これを敵軍はクタイシ城へ向かうため、チョハトゥリ Chokhatauri 村とサムトレディア Samtredia 村の間に架かる粗末な橋で越えようとしていたが難渋していた。これにわが軍が追いついたのである。

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 敵の後陣はすぐさま反転し、迎撃体制をとった。が、彼らの主力はわが軍よりも橋を補強したり舟橋を架けることに集中していたようだ。それに気づいた8月16日、わが軍は前進した。これに応戦したタルタロイ人の弓勢のなんと恐るべきことよ。馬上から射るにもかかわらず、2スタディオンを超えてわが兵らの胸甲を突き破るのだ。われらの射程内に敵を捕らえる以前にわれらの多くが殺され、翌17日の攻撃と合せて、一方的にわが方の4,000の兵が殺された。これにはわが軍は大いに恐慌をきたし、全軍のおよそ半数が逃げたり、命令を拒否したりした。残りの半分も浮き足立った。わが軍は矢戦だけで崩壊の危機に直面していた。

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 わが方の逡巡を見て取った敵方はわずかな守備兵(400人)を残し、一斉に川を渡っていった。万事休す、と思われた。が、彼らが急造した舟橋は数万の人馬にはまったく耐えることができなかったようだ。不幸なことに、われらには幸運なことに、最上流の舟橋が壊れ、これによって流れた残骸と人馬が下流の舟橋と元から架かっていた橋をことごとく押し流した。先ほどまで浮き足立っていたわが兵士たちは残った守備兵を鏖殺した。

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下流では運良く生き残った敵の兵士たちが集合しつつあった。これを殲滅すべく、わが軍は包囲した。が、攻撃するより早く、彼らは「ハーン・カチュムシュラル!」と叫びながら隊列を乱して崩壊していった。既に自失していた彼らを、わが軍は反乱した農夫でも刈るように存分に殺していった。
 このようにして、8月22日にはグリア州に立っているタルタロイ人は一人もいなくなった。完勝であった。

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 戦勝の報告を受けた皇帝陛下は、早速和平交渉に取り掛かることにした。軍の召集よりすでに2年がたっており、諸侯の懐具合も厳しくなっているはずであったから。グリアの戦いに参加した将兵のうち、もっとも遠隔な諸州の兵を除いては、即刻の帰国が許可された。これは嬉しい報奨であった。
 北のタルタロイ人の大将がウトゥダイの所在はなお不明であったが、彼がアラニアに置いたという巨大な天幕からなる拠点に皇帝陛下は使節を送った。
 主無き北のタルタロイ人はきわめて低姿勢で、帝国がアブハジア州の統治権を放棄してくれるなら、こちらはビャルミア州、北ドビナ州、マヌィチ州、デルベント州、セメンデル州、トランス・ポーテージ州、南ウラル州、ボログダ州、チェレミサ草原州を割譲しようと申し出てきた。なぜこれらの僻遠の諸州を割譲してくれるのか、いまいちよく分からなかったものの、素晴らしい取引だったので、皇帝陛下はその申し出を了承なさった。
かくして和約が成立し、皇帝陛下は動員したすべての軍隊を解散させよう、と伝えようとしたとき、敵襲の報告を受けた。他ならぬ北のタルタロイ人からの攻撃であった。
 彼らは和平交渉がどういうものであるのか、まったく理解していなかったのか。ともあれ、皇帝陛下は偉大なる勝利にもかかわらず和平交渉に失敗したため、諸侯から大いなる失望を買った。もはや戦争が継続していようがいまいが、彼らを前線に立たせ続けることはできないだろう。
 すでに、北のタルタロイ人の10隊のうち、8隊は壊滅し(グリア州で5隊、クリミア半島で3隊)、なおペルシア方面に転戦した2隊がいるものの、彼らの奪い取った広大な領土はほとんど無防備だ。すでに1248年になってから各公爵に属する伯爵たちの小規模な軍隊がおこぼれに預かろうと無秩序に北に進軍してきたが、公爵らも帰国することでこの動向は本格的なものとなるだろう。
 そして、東のタルタロイ人はいまやセルジューク朝をまさに屈服させつつあった。彼らが次に向かう先は、帝国のほかはない。

補足

兵士の最大駐留数

 プレイヤーが一つの州に置ける最大の兵士数は、どうやら17,000〜18,000らしい。20,000でも損耗率0.0%だったこともあるが、確かなことは分からない。おそらく、どこかを基準として、敵地損耗率や道路による損耗率軽減が加算されているのであろう。
 ともかく、この数を超えると兵士の損耗率は格段に跳ね上がる。ここに述べたグリアの戦いの終了後、1248年8月22日にグリア州には63,157人の兵士がいたが、これによる損耗率は83.0%となっている。これがどういう計算式によって求められているのかはさっぱり分からない。

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 なお、この兵士数は敵(野戦によって撃退したものの、いまだ隣接州へ去りきれない場合)や味方の兵も含まれる。しかも彼らNPCの兵士はこの最大駐留数超過による損耗の影響を受けない。
この損耗の適用は、毎月1日に行われる。したがって、30日にポーズをかけて、超過している分を解散させれば損耗を免れることができる。まれに1日にNPC軍が移動してくることがあるが、これは不幸とあきらめるほかない。
 また、この毎月1日の損耗適用は海上(ただし海上の1.0%は適用される)と野戦時には免れることができる。
といって、1日に野戦が重なるように移動するのはかなり難しい。海上へ逃れるには、船出に時間がかかることから月の上旬には移動を始めなければならないだろう。

撤退先がないための壊滅

 野戦に敗北して撤退する際、陸接する自分と同宗教の領土がない場合、その軍隊は壊滅する。これはプレイヤー、NPCともに適用を受ける。
したがって、島のように陸接する州がない州の場合には、攻め込んで敗北すると自動的に壊滅する(こういう場合に敵が抗戦せず撤退するのを見たことはない)。また、海に面する州の方が基本的に陸接する州が少ないので、これをもって罠に誘い込む場合には有利である。だから別に海に面している必要はない。
 一部、クリミア半島のクリミア州と下ドニエプル州のように、陸接しているにもかかわらずそうと認められない場所があるようだ。ダーダネルス海峡の両岸、カリオポリス州とアドビス州の間を行き来するには船賃がかからないが、ここも怪しい。

モンゴル軍との講和

 モンゴル軍との講和によって交戦状態を終結させることはできない。このため、一旦宣戦布告したりされたりしたなら、敵の領土すべてを奪うまで戦争は終わらない。
 一応、講和による領土や賠償金の交換はできる。しかも、交戦状態が継続するため、これを何度でも行うことができる。そこで、1州だけ敵の領有を認めそれで得られるポイントでいくつかの州を得、これを何度か継続し、最後の交渉で戦勝分のポイントだけで買える州を得れば、講和条件にあるすべての州を得ることができる。
ただし、この領土獲得の交渉はキリスト教君主との間で行うように著しく評判を下げる。
 したがって、どうせ敵の領土すべてを奪わなければならないのなら、交渉しないほうが評判を下げない分だけましであると思われる。

 今プレイは CK 日本語版 1.04a 、難易度:非常に難しい、攻撃性:普通、シナリオ1・ビザンティン帝国で行われた。

 冒頭のグリア州及びその周辺の地名などについては、かなり冗長な感があるが、せっかく調べたので削除するのが忍びなかった。ちなみに、歴代のビザンツ皇帝の略歴は思い切って削除している。
 また、結末がかなり失速している感がある。著者の力量不足である。
 以上、著者的にはあまりうまく書けたとは思えないのだが、これまたせっかく書いたのだから、と投稿してみる。読んでしまったみなさま・・・ごめんなさい ;;


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Last-modified: 2006-01-15 (日) 00:00:00 (4271d)