プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)

マニク家の戦争
異教徒たち
治世後期

マニク家の戦争

かつては大国が気まぐれを起こせば即滅亡、というほどの弱小勢力であった
マニク家の統治者たちは、戦争という一大事に際し、非常に単純な原則に従って行動した。
それは「勝てない戦いは挑まない」という、何とも意気の上がらない原則である。

生涯を信仰の戦いに捧げた感のある聖アスクカダルでさえ、
モンゴルとの開戦においてはぎりぎりまで静観の姿勢を崩さず、
現状では勝てないノヴゴロドに宣戦されれば支配権を引き渡して和を結ぶ、という徹底ぶりである。
他の当主たちも似たり寄ったりで、
年代記の制作者たちもさぞ困った事だろう。

マニク家の歴史を紐解いてゆくと、大国から離反した小勢力をすかさず叩きのめすという記述が
あちこちで見られ、いささかうんざりする程であるが、
これはこれで彼らには合ったやり方であったのかも知れない。

この戦略のおかげかどうか、マニク家の勢力拡大は同時代の他国に比べても
遙かにゆっくりとしたものであり、後に来る衰退もまた緩やかに進行したのであった。

この時代に編まれた史料の一つに、クロアチアと他国との勢力比較がある。
「もしクロアチアが今、宣戦を受けたら」という前提で国力と兵力を列記したものであり、
王プラドの命により記されたものであるという。
何事にも慎重であったプラドの性格を反映して、やたらと細かい数字が並ぶ味気ないものだが、
およその数字を拾うと次の様になる。

国名、 動員可能兵力、直轄領、封臣
ズィール、  3000、2州、2国
ムラービト、22000、7州、20以上
エジプト、  6000、10州、12国
セルジューク、5000、8州、6国
カラハン、 10000、3州、16国
ベニ・ヒラル、10000、6州、21国
クマン、  15000、5州、24国

そして、
クロアチア、26000、10州、15国

当時の大国がいかに大義をかざした戦争で消耗していたかを、この数字は示している。
プラドも安心して、これまでのマニク家の戦略を自らのものとした事だろう。

 

 9代 プラド (1260-1297)

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マニク家系図。聖アスクカダルからプラドの息子たちまで

1260年にプラドがアスクカダルの後継として王になった当時、
長兄ボズウルズは相続により、ヘルソン侯の封臣としてニケーアの地を治めていた。
ヘルソン侯はクリミアの地の独立勢力で、どの王にも属していなかったが、
王である自分の兄が他国の封臣という状態に、プラドは複雑な思いを抱いた事だろう。

しかしその2年後、グリアを治めていた次兄ゴカルが死亡したのである。
マニク家の相続法は王位にのみ及ぶ法であったため、
ゴカルの後は通例に習い、ボズウルズが継いだのであった。

カヘティと並ぶカフカスの要衝であったグリアが他国領になることは、
この地の支配者たるプラドには捨ててはおけない問題であった。
しかも全ての承継は、合法的になされている。
相手が家族という事もあり、プラドは兵を挙げるかどうかで相当に悩んだらしい。
父アスクカダルと同じく、十字軍戦士として聖戦の遂行を誓ったのも、
その心の表れであろうか。

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1260年代のクロアチア領(青)。ニケーア伯がグリア(白)を領有した

今回の問題は幸いにも、子の無かったボズウルズが8年後に病死し、
全ての権利をプラドが相続することで解決したが、
王のあずかり知らぬ所で領有権が移動するという現象は、
この後もクロアチアを静かに動揺させる事になるのである。

後継確立の必要性を感じたのか、この時期、プラドは息子たちの処遇を決めている。
長子サロスをトラペズス伯、兼ハザール公に。
次男アスクカダルは元帥に。
三男タウスをカルデア伯に。
即位から10年足らずで、プラドは実にはっきりと継承順位を明らかにしたのであった。

1272年 兄から相続したニケーアで、カトリックへの改宗に成功。

1273年 キプチャク・ハン族滅亡。
一時期はルーシ平原の覇権を握るかに思われたキプチャク・ハン族も、
ノヴゴロドに叩かれ、クロアチアに領土をかすめ取られて、
来襲から40年足らずであえなく滅んだのであった。

北のモンゴル勢は一掃された。しかし南では、事態は全く異なる展開を見せていたのであった。

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異教徒たち

イルハン族、地中海に到達

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イルハン族(青色、白の囲み)の最大領域。ペルシア、メソポタミアを併呑し地中海にまで到達した

カフカスからは遠くペルシアの地より侵入したイルハン族は、
イスラム勢力の分立状態もあり、1つの勢力を潰しては次の勢力に宣戦、をくり返した末、
この世紀の後半にはペルシアからメソポタミアを領有する大勢力に膨れあがっていた。
1270年代には、バグダッドへの入城を果たしている。

その後も進撃は止まらず、
ついに1272年、地中海の東岸に到達したのであった。

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プラド治世の小アジア北部。イルハン族(青)がクロアチア領と接する

イルハン族はムラービト、セルジューク、エジプトらイスラムの主要勢力との交戦中であり、
クロアチアに直接の被害は無かったものの、
プラドには南のモンゴル勢に対する備えを怠ることは許されなかったのである。

クマン再興

北のモンゴル勢たるキプチャク・ハン族に完膚無きまでの敗北を喫し、
命からがらバルト海岸にまで逃げ延びたクマン王であったが、
わずか30年あまりの間に、この地での再興に成功したのであった。

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クマン族(緑色、白の囲み)の再興。バルト海岸の異教勢力をまとめ上げ、この地の一大勢力として返り咲いた

これは、クマン王による征服活動によるのではなく、
キリスト教勢に押される一方であった異教勢力が、
逃げ延びてきたクマン王に次々と臣従したのが実際の所の様である。
異教徒たちにとっても、王であるということは大きな意味を持っていたらしい。

北欧のキリスト教勢との争いはこの後も続くが、
クマン族は実にしぶとく、中世を生き延びるのである。

パフラゴニア

占領地を維持することは、占領そのものよりも遙かに難しい。
世界史ではイヤと言うほど統治者たちを悩ませてきたこの問題を、
プラドもまた味わうことになった。

ルーシ平原ではノヴゴロドがキプチャク・ハン族を滅ぼした1273年、
プラドはムラービトのスルタンより離反したパフラゴニアの首長に宣戦した。

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パフラゴニア周辺図。小アジアの北岸は未だ諸勢力がひしめき合っている

当時の小アジアは、西部をノヴゴロド王が押さえ、カフカスから連なる北東部をクロアチアが、
内陸部にはセルジューク勢に伴って移り住んできたイスラム勢が占めるという情勢下にあった。

地図上で見れば、パフラゴニアはプラドの治世に手に入れたニケーアに隣接し、
黒海沿岸を押さえるという、この時期から明らかになりつつあったクロアチアの戦略の
「後背地」となりうる場所であった。

何かにつけて父アスクカダルと比較されたに違いないプラドである。
北の平原に勢力を拡大した父に対し、南への拡張を狙っていたのかも知れない。

だがプラドは、パフラゴニアも、その近辺も自分の目で見たことは無かった。
もしこの地を一度でも訪れていたら、険しい山々が連なり、谷で隔てられたこの地に
軍を進めることの難しさを実感していただろう。

いずれにせよ、プラドは次男のアスクカダルを元帥に命じ、
アスクカダルに率いられたクロアチア軍はグリアの港から黒海を渡り、
小アジアの地に向かったのである。
それは、出発時には想像もできない、長い長い戦いの始まりでもあった。

イスラム勢の支配下にあるアミソスを避け、西からパフラゴニアに向かったアスクカダルは、
パフラゴニア首長の軍勢を簡単に破り、また包囲戦にも勝利して、
この地の支配権を得たのである。
新たに領地を加えたとの知らせが、アラニアの都に向けて発つ。
しかしその直後、パフラゴニア全土で反乱が火の手を上げたのであった。

1276年、住民の反乱が勃発。駐屯していたアスクカダル軍がこれを鎮圧。
だがアスクカダルが軍をニケーアに返すや、再び反乱。軍による鎮圧。
まるでいたちごっこの様にくり返される反乱は、この年だけで4回に及んだ。

年が変わって1277年、再びの反乱に向かったアスクカダルは、
乱戦の中で重傷を負ってしまう。
戦い自体には勝利したものの、遠征軍には暗い空気が漂い始めていた。

翌1278年、前年に負った戦傷が元で、アスクカダルは死んだ。34歳の若さであった。

指揮官を失った軍勢は、著しく士気が低下していたのである。
1279年には、何度目かになるパフラゴニア反乱軍に差し向けられた1600の駐屯軍が
わずか200人の反乱兵に敗北を喫するという不名誉まで重なる。
プラドは差し向けた遠征軍を撤収させ、新たな軍を編成しなければならなかった。

1282年 パフラゴニアの改宗にも失敗
この地に住む人々は、セルジューク=トルコの侵攻とともにやって来て、
元々住んでいたビザンツの正教徒を追い出して定着した人々である。
自分たちがイスラムの最前線にいると自負しても、不思議ではなかった。
そして険しい地形は、そこに住む人々を閉鎖的にしやすい。
プラドがこの地を支配する困難を理解するのに、息子一人が犠牲になったのであった。

この年は、パフラゴニアでの反乱が再燃することにもなった。
ニケーアに派遣した軍を差し向けること、3回。
派遣軍は反乱軍に2度目の敗北を喫し、命からがらニケーアに逃げ戻るという有様であった。

プラドはようやくにして、パフラゴニアを直接支配する困難を悟った様である。
1283年に、アスクカダルの後任の元帥に伯位を与え、この地に派遣している。
しかし、この時点では、問題の解決には至らなかった。

1284年 ルーシ平原南部の下ヴォルガ伯がノヴゴロド王より離反。
プラドは腹いせとばかりに北部諸州の兵を集め、この地を占領した。
ヴォルガ、ドンの大河に挟まれる平原は、軍勢の移動も速やかに行える。
地図の上での戦略と実際が異なることを、プラドも学んだであろうか。

軍が出払っていたこの時が好機と思ったか、同年クマ伯が離反。王国は内乱の危機に突入した。
翌1285年には、カルデア伯が独立、
一方で封臣のクリミア伯とカソグス伯が、独立勢力であったヘルソン侯に宣戦
さらに黒海西岸の地では、トゥルヌ伯が独立
占領したばかりの下ヴォルガでは改宗に失敗、
追い打ちをかけるように、パフラゴニアでも反乱。

王位を揺るがすような大敵は一人もいなかったが、
プラドには席を温める暇も許されないかの様だった。
無言で独立した勢力は当面の間放置する一方、反乱軍を一つ一つ潰しながらこの年は過ぎる。
困難な状況のまますぎるかと思われていたこの年の終わり、一つの知らせが王宮に届いた。

それは、父アスクカダルが法王から聖者として列せられたという知らせであった。

もちろん法王は、プラドの苦境など知ったことでは無い。
ただプラドがヴァチカンに積んだ黄金が、たまたまこの時期に実を結んだという事だ。
父の列聖のためにはあらゆる手段を惜しまなかったと評されるプラドである。
この知らせには、誰よりも安堵し喜んだに違いない。

こうして、波乱続きの1285年は終わった。

プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)

治世後期

プラド、遠征に発つ

先代と異なり、長らく戦闘は家臣に任せきりであったプラドであるが、
父の聖列を機に、ついにその重い腰を上げたのである。
都アラニアをはじめ、直轄地で集めた兵およそ3000を率い、
プラドはグリアの港から黒海へと乗り出した。1286年のことである。

目的地はパフラゴニア。
ムスリムの反乱軍に占拠されたこの地の奪回は、もはや一刻の猶予も許されない状況であった。

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プラド、パフラゴニア奪回のため遠征に発つ

王自らが率いる軍の士気は高く、パフラゴニアに到着したクロアチア軍は反乱軍を徹底的に破り、
この地の奪回に成功する。
前年のから続いていた内乱の危機も回収し、プラドは一息付けたのである。

だがこの一息は、ほんの一息でしかなかった。

 

対ハンガリー戦

 

初代ブリカンの当時は正教徒であったアラン人たちも、
この時代にはほぼ全てがカトリックに改宗し、その統治領域も拡がっていた。
それに伴い、西欧のカトリック勢力との関係も深まっていたのである。

結婚や相続などを通じて、西欧勢の権力争いに関係する者も出てくる。
封臣であるアゾフ伯がフランス王と争いになったのも、
フランスにある州の請求権が原因であった。

やむを得ずという感じで、プラドはフランス王に宣戦する。
フランスは遠く、しかも同時期のフランスは内乱の時代であり、軍を黒海まで送ってくることは
不可能と判断したのかもしれない。
実際、フランス軍がこの地に足を踏み入れることは無かった。

しかし、内乱のさなか、フランス王が男子の後継者を残さずに死んでしまったのである。
王位を相続したのは、ハンガリー王のヤンコ・ド・モーヴォワサン。
母方の縁により、フランス王位の後継者に連なっていたのだった。

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ハンガリー王、ヤンコ・ド・モーヴォワサン。ドナウ川河口域の領有をめぐりプラドと激しく争った

ハンガリー王ヤンコは、フランス王位の他、シチリア、イングランド、レオン、オーストリア☆の
各王位を相続で手に入れた、当時の一大勢力であった。
そしてハンガリーは、一部領土をクロアチアと接している。
プラドは、事態が容易ならざらぬ事を悟った。
現にヤンコは、ドナウ川下流の封臣(ガラス伯)に宣戦を布告していたのである。

プラドは急ぎ、本国で軍を招集させると、自らもパフラゴニアを離れ、ドナウへと向かった。
この間、ハンガリー王との和平交渉は、ことごとく失敗している。
ハンガリーとの衝突は、避けられないとプラドも覚悟したであろう。

またこの時期は、クロアチアの周辺がにわかに騒がしくなった時期でもあった。
1289年、キエフ侯領であったヘラクレイアが、ムスリムの反乱軍に占拠され独立。
また翌年には、シノーペの首長がムラービト王より離反した。

小アジアの黒海沿岸を形成するこれらの地は、プラドにとっては無視しておけない地であった。
急ぎ編成された別働隊が、急派される。
反乱軍の首謀者たちは、自らの命と引き替えに支配権をプラドに差し出したのであった。

一方、対ハンガリー戦では、ガラス伯が本国軍の救援を待たずに降伏、
1292年、ガラスの支配権をハンガリーに奪われてしまう。

プラドは軍を集結させ、ガラスに向かう。同年中にこの地を奪回した。
ハンガリーとの和には、本国に打撃を与える必要を感じたのだろう。
ガラスを発ったプラドの軍は、ハンガリーの都が置かれていたマルマロシュに攻め込んだのである。
ハンガリー王はフランス王から戦争も受け継いでいたので、
主力は不在との判断からであった。

しかしマルマロシュには、王の友人たちが送った傭兵3000が待機していたのである。
プラドの軍は傭兵部隊に散々に蹴散らされ、ガラスへと撤退した。

1293年 ようやくにしてハンガリー王との和が成立。プラドはガラスの奪回に成功した。

同年、ムラービト王の支配下にあったアミソスとカルトゥリの首長が離反。
直ちにプラドはハンガリー遠征から帰った軍を再編成し、これらの地に向かわせた。
カルトゥリはプラドに降伏したが、アミソスはムラービト王に降伏する。
クロアチアがアミソスを得るのは、もう少し先の話になる。

グルジア王位再興

カルトゥリを得たことは、一つの贈り物をプラドにもたらした。
1294年 プラドはグルジア王位の再興を宣言する。
セルジューク・トルコに敗れ、グルジアが消滅してからおよそ1世紀、
マニク家により、グルジアはカトリックの王国として再興されたのである。
第一称号はクロアチア王のままであったが、これ以降、
マニク家の当主はグルジア王を名乗ることになる。

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グルジア王位再興当時の、カフカスの信仰地図

グルジア王位を再興したものの、プラドの労苦は絶えることがなかった。
新たに占領した地では宗教対立が頻発し、プラドの治世後半だけでも
ヘラクレイア、下ヴォルガ、シノーペ、カルトゥリで暴動が起こっている。
中でもヘラクレイアでは、3回に渡り反乱軍が立ち、
そのたびに軍勢を派遣しなければならなかった。
プラドも何回か、軍を率いて親征している。

宗教に関してはアスクカダルの忠実な後継者であったプラドである。
これらの対立には一切の妥協をせず、カトリックの信仰を広めていったのであった。

 死 

1296年 旧クロアチア領のザグレブ伯とヴェリア司教が臣従。

1297年 パフラゴニア伯が独立。

長年にわたり、数千の兵士を投入し、住民の弾圧をくり返し、息子一人の命まで引き替えにして
あれほどまでにプラドが執着したパフラゴニアであったが、
主従間のつまらないいさかいがきっかけで、失われてしまったのであった。

この事が、プラドから生きる力を奪ったのであろうか。
同年11月、プラドはすり切れる様に死んだ。
71歳、37年の、苦難に次ぐ苦難に見舞われた治世であった。

ハザール公であった長男のサロスが、プラドの後を継いだ。

輝かしい聖アスクカダルの治世、労苦ばかりのプラドの治世を経て、
次に来るのはしかし、4代に渡る安定と繁栄の時代なのである。
内外の小規模な争いはあったにせよ、プラドの後継者たちは
比較的平穏な治世を享受することができた。

プラドには気の毒と言うしかないが、これも歴史の流れというものであろう。
「次代の繁栄のため、自らが労苦を背負った」
と思えば、少しは救われるであろうか。

実際、聖アスクカダルの治世での急激な拡張は、
どのような形にせよ、その反動を避けることができなかったのである。
プラドが偉かったところは、これらの苦難に統治を投げ出すことなく、
地道に問題を一つ一つ片付けていった事である。
おかげで彼の後継者たちは、拡大し、統治が再構築されたクロアチアを
統治する事ができたのである。

ちなみにプラドも、生前の働きを良しとした教皇により福者には列せられたが、
聖者にまで列せられることはなかった。
プラド以降にも、福者になる者は出ても、聖者になった者は皆無である。
マニク家ではアスクカダルだけが、聖人の名で呼ばれる王になるのである。

もちろんこれは、一つの家系からあまり多くの聖者を出すわけにはいかないという
教会側の事情もあるかも知れないが、
やはり地上の王国は、聖人ではなく俗人によって治められるべき、という事なのであろう。

☆…追加王号。ケルンテン、チロル、エスターライヒとバイエルンの一部を含む領域からなる

プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)


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Last-modified: 2009-06-28 (日) 22:38:56 (3402d)