お兄ちゃんだけど愛さえあれば関係ないよねっ
このページはチューリンゲン公ゲプハルトと 妹クレメンティアが、シモン・ド・ボーがドイツ王になるまでの道筋を解説します。 本編には特に関係ないけれど、面白かったので別ページを作って記載したよ。
さて、1066年プレイ開始時点での国王はハインリヒ・フォン・フランケン。 16歳で兄弟は姉が一人、サヴォイア公ピエトロの妹ベルタと結婚しています。 継承法は準サリカ法になっているよ。特に早死にする要素はないんだけど、不幸にも病気になって1067年に死亡。 後継者がなかった為、ドイツは選挙法になり、上ロレーヌ公ゴットフリート・ダルデンヌが王に即位しました。 この時、ポンス・ギゲス・ド・ボーは13歳。プロヴァンス公の封臣ヴネッサン伯ギョーム・ギニューの弟です。 ドイツ王位の継承順は1位がスワビア、プロヴァンスは6位ですね。 wikiにもあるように、プロヴァンスは後継者に乏しい。 プロヴァンス公ベルトランは子供が4歳の女児一人で兄弟もなく、従兄弟のフォルカルキエ伯グイフレが継承順一位になっているよ。 3年後の1070年。16歳になったポンス・ギゲスは、同い年でグイフレの兄の遺児アダリスと結婚しました。 そして1073年、姉二人の下に後のドイツ王シモンが生まれた。 未だにプロヴァンス公に男児はなく、シモンが継承順一位となったよ。 時は飛んで1078年。プロヴァンス公ベルトランはドイツ王に反旗を翻しました。この時2歳の男児ジャッケが生まれていました。 しかし、ベルトランは敗北し、代わりにグイフレがプロヴァンス公となる。 この時グイフレは48歳。子供は女児2人で、甥のシモンが継承順一位となったよ。 1081年、グイフレが死去。8歳のシモンがプロヴァンス公を継ぎました。 この時、ドイツ王ゴットフリートは36歳。継承順はヴァヴァリア、フランダース、上ロレーヌ、そしてプロヴァンスでした。 しかし、ゴットフリートの威信は-660、「内乱の危機」でスワビア・スロヴェニア他と交戦中だ。 この有様では王国を維持できるはずもないね。フランダース、上ロレーヌ、ヴァヴァリアが相次いで反乱。 結局、スワビア・スロヴェニア・フランダースには自治を認めることになりました。 これならチューリンゲンが参戦しても勝ち目があったかもしれない。 でも威信が足りず称号強奪は出来なかったから、特に得るものはないな。 さて、1083年、戦闘で重傷を負ったゴットフリート、38歳で死去。 そしてついに、継承順一位になっていた11歳のプロヴァンス公シモンがドイツ王位を継いだ、という訳さ。
こうやって見ると本当に針の穴を通すような確立を辿ったのが分かるね。 「ハインリヒが死に、継承法になる」「ポンス・ギゲスの子がプロヴァンス公になる」「プロヴァンス公が継承順一位の時にドイツ王が死亡する」それぞれ単体でも極めて低い確率でしょう。 近い年代のセーブデータでチューリンゲンでドイツ王に忠誠を誓って試してみれば継承順2位ぐらいにはなったけど、それでもドイツ王は無理だったね。 ポンス・ギゲスの息子が第三代ドイツ王になってるセーブデータは世界中でもこれだけなんじゃないかな?*1 まあ、こんな奇跡みたいな事が起こるのもこのゲームの魅力の一つって所かな! 初プレイでなに分かったような事言ってるんですか。